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「狼たちの午後」
1
それは明滅する光。
深い深い黒に刹那の瞬きをみせるもの。
浮かんでは沈み。
沈んでは浮かぶ。
破壊的衝動が揺さぶられる。
叩きつぶせと脳の中で何かが囁く。
踏みにじれと鼓動が高鳴る。
思わず笑った。
十河大作は嗤った。
そうだ踏みつぶせ! 破壊しろ!
お前は狂った巨象。
クレイジー・エレファント。
すり寄るディフェンスをなぎ倒す。
あまりに脆弱。
鼻で笑う価値もない。
大作はゆっくりと数歩だけ進む。
ゆっくりでいい。
破壊衝動が濃密になる。
まるで肉食の獣だ。
血の滴るおいしい肉を目の前にした獣のような高ぶり。
闇夜に明滅する光。
ゴールのチャンスというのはそんなものだ。
たったの一瞬。
たったの一歩。
たったの一瞥。
たったの一呼吸。
刹那の遅れで消え去ってしまう。
刹那の焦りで消え去ってしまう。
絶対にその瞬間を逃してはならない。
だから大作はいつも準備しておく。
牙を研いでおく。
爪を磨く。
一瞬を仕留めるために。
チームメイトでキャプテンでもある丸木王児がセンタリングをあげる。
ライナー性のボールが吸い込まれるように大作の元へ。
ディフェンスも間に合わない。
キーパーも出るに出られない。
ゴール前の密集地帯に一瞬だけ産まれた空隙。
絶対的不可侵領域。
巨象に踏みにじられたかのように空いたスペース。
大作は嗤う。
破壊衝動が臨界点に達する。
アドレナリンが体中を巡る。
破壊しろ!
だがボールは大作の元に届く前に失速し、慌てて足をのばしたディフェンダーのつま先にあたる。
力無く転がったボールは、そのままゴールをそれてゴールラインを割った。
安堵のため息をつくディフェンダー。刹那、その目の前を大作がよぎった。彼は慌ててマークにつこうとする。
そして大作はそのままコーナー付近へ向かっていく。
ショートコーナーをするつもりかと、ディフェンダーはとまどいをみせる。
もしショートコーナーならば自分はマークを引き渡してペナルティエリアに戻るべきか。
しかしコーナーキックを蹴ろうとボールをセットした丸木も、同じようにとまどいの表情を浮かべた。
こんな作戦は聞いてなかった。
高校サッカー界百戦錬磨で知られる福岡清明高校監督――松根勝夫は、時に奇策も用いるが、こんなパターンは聞いたことがない。
そもそも190センチとチームナンバーワンの長身選手であり、ストライカーである大作をゴール前から遠ざけるのは奇策すぎて、逆に有効性を欠いている。
丸木がとまどっているうちに大作はショートコーナーどころか、丸木のすぐ目の前にきていた。
「なんだ! 十河! とっととペナルティに戻れ!」
十河大作。入部して四ヶ月。まだ十六にもなっていない。だが三年でキャプテンでもある丸木は、大作の存在に威圧感を覚えた。
ただ長身だからというだけではない。骨太の体格。日本人離れした彫りの深い顔立ち。何よりも窪んだ目元から鋭く丸木を睨め付ける眼光。
殺気だ。
十七年と七ヶ月。丸木は生きてきた中で始めて人の目から殺気というものを感じた。
そして丸木は、そのまま睨み返す間もなく殴り倒された。
「なんだあのへっぽこクロスは! アンタそれでも天下の福岡清明のキャプテンか! ああ?」
大作の怒声が響き渡ると、どよめきがピッチを、ベンチを、観客席を覆う。
福岡清明のベンチでは、松根監督が重いため息をもらし頭をかかえた。
夏の青空に、蝉の声をかき消すように笛の音が響き渡る。
そして審判の胸元から高らかに黄色いカードが取り出され、天に向かってつき出された。
イエローで済んで良かった。
松根監督は地獄に仏をみたかのごとく、再び、しかし今度は短く息を吐き出し、ベンチに顔を向けた。
「図師。アップしろ! 十河と代われ」
ベンチでペットボトルの水を飲んでいた図師陽介が、思わず吹き出す。隣にいたチームメイト達が嫌な顔をして図師から少し体を離した。
「え? 僕ですか?」
「なんだ不満か?」
「いや……この状況で」
図師はピッチに視線を移する 今行われている試合。地区の強豪校やユースチームが集まって行われるプリンスリーグ。その中の一試合。相手は自分達福岡清明高校と首位を競う島原テンペストユース。これに負ければテンペストユースに勝ち点で並ばれるという状況だ。しかも今は後半三十分で0−1と負けている。
「それに僕はストライカーじゃないですよ」
チームのエースストライカーだった左利きのスペシャリスト武藤敦がバテて、代わりに一年の長身ストライカー十河大作をいれてパワープレーに移行したばかりだ。
なのに十分と立たないうちに大作をさげて、同じ一年のサイドプレーヤーである自分をいれようというのである。点を獲りに行かなければならない状況で登録上のフォワードは一人もいなくなる。
図師は始めて試合に出られるという喜びより、松根の思わぬ采配に顔をしかめるばかりだった。
「なんだ? 試合に出たくないのか?」
松根が眉間に皺を寄せて険しい表情を作る。
「あ、はいはい! 喜んで! すぐにアップします!」
図師は慌ててベンチを立った。
チームメイト総出での制止もあってか、なんとか大作の機嫌も収まり、丸木もふらつきながら立ち上がった。誰もが真夏の暑さにやられているようだ。おそらくピッチ上は30℃を越えているだろう。誰もが早く試合を終わらせたがっていた。
大作は額から流れる汗をぬぐい、マークについたディフェンダーを睨む。しかしディフェンダーは大作と目をあわせようともせず。小さく震えているようだった。
つまんねぇ相手だ。
大作の破壊衝動が一気に消沈していく。
唐突にコーナーキックがあげられる。
そしてそのままキーパーにキャッチされる。
あまりに淡泊なコーナーキックに、大作は思いっきり舌打ちした。マークについていたディフェンダーが肩をビクッとさせる。
プレーが続いているため、さすがに今度は丸木に詰め寄ることも出来ない。それどころか丸木は慌てて自陣へと戻っていった。
守備意識が高いのか、それとも自分を怖がっているか。大作は先輩に向かって苦笑した。
キーパーがパントキックを蹴る。
そしてそのままサイドラインを割った。
レベルが低い。
真夏の試合ということもあって、後半に入ってから集中力も体力も無くなり始めていた。
丸木がスローインしようとボールを拾い上げた瞬間。審判が笛を吹き交代を告げる。
そして大作は目を疑った。
交代ボードに提示された自分の背番号。
思わずベンチを睨んだ。
だがさすがに松根監督も百戦錬磨ということあってか、大作の睨みに怯むことはなく、手の平を払うゼスチャーで「早く交代しろ」という意思表示をみせた。
怒りの固まりだった。
図師は大作が近づいてくるにつれ、顔がひきつっていくのを感じていた。
大作が図師を睨む。慌てて目を逸らす図師。
それでもちゃんとハイタッチはしてくれるようだ。大作が右手を挙げる。
そして図師と入れ替わる瞬間、「お前に任せた」と肩をポンと叩くようなしぐさをみせて、耳元で図師にだけ聞こえるように短く囁いた。
「点いれたら殺すからな」
図師は慌てて振り返る。大作は振り返るでもなく、肩を怒らせてベンチへと向かっていく。
「は?」
図師は思わず、呆然とその場に立ちつくした。
「君! 早く入りなさい!」
審判が図師に注意する。図師は慌てて我に返り、ピッチに入った。
試合が再開される。
丸木から図師の足下へボールが投げ込まれる。図師がワンタッチで丸木に返す。丸木がそのままサイドラインを駆け上がる。暑さで出遅れた相手選手が、遅れ気味に丸木の足下にスライディングする。
笛が吹かれた。
立ち上がった丸木がそのまま顔をしかめる。そして図師をみた。
「ちょっと足をやったみたいだ。お前、フリーキックが得意なんだっけ?」
「あ、はい」
さすがキャプテンと図師は感嘆した。自分のような新入生の特徴まで把握しているなんて。こうして図師がプリンスリーグでのベンチ入りが許されたのも、圧倒的な精度を誇るフリーキックを期待されてだった。
「蹴ってみろ。監督からもいわれてるんだ。チャンスがあったらお前に蹴らせろって」
丸木が図師にボールを渡す。
図師はボールをセットしてゴールをみた。
陽炎が立ち上る。
暑いな……。
吐き出す息さえも汗ばんでいるかのように重く感じられる。
ゴールまで二十五メートルといったところだ。角度は約四十度。直接狙うことも出来る。
図師はチラッとベンチを観た。
チームメイトから離れたところで大作がどかりと座り込んで、何かぶつぶついいながら図師を睨んでいた。
ない。
直接狙うのは、ない。
図師は青ざめた顔で自分に頷きかけた。
アシストなら殺しはしないだろう。
すっと意識をボールに集中させる。
夕暮れの公園。
どんなに疲れている時も、どんなに暑い時でも、寒い時でも、全てはあの公園に還元される。
ジャングルジムが壁だった。すべり台がキーパーだった。ブランコの柵と柵の間がゴールだった。
姉三人の下に産まれ、しかも誰よりも女っぽい顔立ちをしていたせいか、スカートを履かされて化粧させられて、女友達とばかり遊ばされた幼少時代。
公園でサッカーに興じる男友達に混ざりたくて、何度も同じ公園でボールを蹴り続けた。
だけど声をあげて「一緒にやろう」という勇気は湧かなかった。
いつも一人でフリーキックを蹴り続けた。
どんな球種でも、どんなスピードでも思いのままだ。
たとえ雨が降ろうと、たとえ地面が荒れていようと。全てあの公園で克服した。
図師は独特の緩慢な動作からボールを蹴り出す。
低いライナー性のボールだ。
だがそのボールには誰も触れられない。
唯一触れることが許されたのはターゲットの丸木だけだ。
丸木が走り込み、飛び上がった高さちょうどにボールが急降下する。
丸木の額に弾かれたボールが、ゴールバーに当たり、そのままゴールの中でバウンドした。
審判がセンターサークルを指さす。
丸木が拳を振り上げる。
図師が腰の脇で小さく拳を握り込む。
歓喜がピッチを覆い尽くそうとした瞬間――
バンッ!
けたたましい音がして、ピッチにいた全員がベンチを見る。
大作がベンチの脇に設置された、選手の名前の書かれた掲示板を蹴り倒した音だった。
審判が大作に詰め寄る。
そして赤いカードを突きつけた。
反スポーツ的行為をとられたのだろう。
図師は始めてチームメイトがベンチにいてレッドカードを受けるのをみた。
審判に殴りかかろうとする大作を、サブの選手総出で引きずっていく。
図師はその瞬間、心に決めた。
高校三年間。アイツにだけは関わらないでおこう、と。
2
カラスの鳴き声が響き渡る。
鬱蒼とした木々が、さらに蒸し暑さを際だたせる。
ここは密林のジャングルかと、大作は舌打ちした。
何故にこんなところをさまよう羽目になったかと思うと、無性に腹が立ってきた。
レッドカードを受けて控え室に戻されても、一向に怒りが収まらず、そこら中の机や椅子に怒りをぶつけた。
そうこうしているうちに、気がついたら眠っていた。
さんざん散らかった部屋の中央で、一人大の字になって眠っていたのだ。
チームメイトの荷物は全て無くなっていた。
慌てて駐車場に行くと、松根監督が遠征のために個人で買った『松根バス』もなくなっていた。
そしてバスが止まっていた駐車スペースに大学ノートの切れ端が置かれていて、風で飛ばないようにと石の重しまでのせてあった。
『 十河へ
宿舎まで歩いて帰ってこい。
頭を冷やせ。
松根勝夫 』
高校教師として管理責任は?
若干十五歳の少年に対する仕打ちか?
大作は置き手紙をくしゃくしゃに丸めて放り投げた。
そしてそのまま下山を始めた。
試合会場となった草鹿台スポーツセンターは、ほとんど山の上ともいえる場所にある。
そのためバスでくねくねと曲がった道を昇ってきて、何人かは乗り物酔いになったほどだ。
大作の頭に閃くものがあった。
道すがら帰れば、ぐねぐねと曲がって無駄なタイムロスになってしまう。こんな真夏に何時間も歩かされるなど、うんざりだ。
だったら無駄に曲がらなければいい。
バスじゃないんだから直線上に下山していけば早く麓まで辿り着けるのではと。
ナイスアイデアと、大作は軽快にガードレールを乗り越えた。
そして見事に遭難した。
くっと煽るとペットボトルの水が底をついた。
一滴も残っていない。
このままサバイバル生活か……。
そうなればさすがに松根監督も慌てるだろう。そして責任問題を問われるだろう。
ザマアミロ。
だが大作はすぐに後悔した。
それでは福岡清明に入学した意味がない。
高校サッカー界有数の指導者であり、システムや戦術重視の管理サッカー隆盛の中、選手の自主性を重んじて、なおも成績を残し続ける松根監督。
彼の下だから、サッカーをしようと思ったのだ。
大嫌いなサッカーを押しつけない彼の下で。
サッカーを破壊することを許す人の下で。
さすがに彼が解任されるのはマズイだろうと、携帯電話を取り出し連絡しようとする。
だが表示は「圏外」だった。
必死で携帯を天に掲げたり、振ったりしてみるが一向に電波が来る気配もない。
「うがーっ!!」
ついには苛立ちが頂点に達し、携帯電話を投げ捨てた。
そして我に返って、慌てて取り戻しに行く。
中には大事なデータも入っているんだ。
少し下るとぽっかりと空いたスペースのような場所に出た。
携帯電話はちょうどそこに転がっていた。
大作は携帯電話を拾い上げて、壊れていないことを確認し、安堵のため息を漏らす。
ふと、何かが聞こえた。
目線を移すと、木に寄りかかるように人が倒れていた。
死体かと、ギョッとする大作。
だがその人物は、スヤスヤと寝息を立てていた。
あどけない小学生か、中学一年くらいの少年だった。
短髪にやや太めの眉。寝息を立てる小さな口。
この辺に住んでいる子供だろうか?
周りに荷物らしいものもなく、手ぶらなところをみて、大作はそう判断した。そして道を聞こうと、少年の肩を揺さぶって起しにかかる。
「おい! ガキ! 起きろって!」
少年の眉間に皺が寄る。そして口から寝言のようなものが出た。
「三汰……うるさい……」
サンタ?
弟か友達の名前だろうか? まさかサンタクロースのことじゃないよな?
「おい! 起きろって!」
軽く頬を叩く。さすがに少年は目を開いた。
「……ああ」
少年は大作を見て微笑みを浮かべた。大作は思わず顔をしかめた。
何故に微笑まれたのか?
「やっぱり家宝は寝て待てだよな。動き回れば体力を消耗するだけだし」
少年は得意げに二、三度頷く。そして目を見開いて大作を見る。
「はじめまして! 俺は名古屋市から来た壁凪圭吾っていいます。実はサッカーユース代表の合宿に呼ばれまして、近くのスポーツセンターに来たんですけど、探検してるうちに道に迷っちゃって……あの? どうかしました?」
圭吾は不思議そうにうなだれた大作をみる。
「大丈夫ですか? おじさん」
「誰がおじさんじゃ!」
大作が勢いよく顔を上げたため、圭吾は腰を抜かして驚く。
「いくら小学生とはいえ! おじさん呼ばわりされる年齢じゃねーぞっ! こうみえても高一だ! 高一っ!」
「嘘……」
「嘘じゃねぇ! ほら、学生証!」
「あ、ホントだ……スゲー……信じられねぇー……同い年かよ」
「お前、小学生のくせに口の利き方が――って……同い年?」
今度は大作が目を見開いて圭吾をみる。あどけない顔立ち。無邪気な笑顔を浮かべて圭吾が告げる。
「あ、俺も高一なんだ。よろしく」
聞いたことがあった。
U18代表に飛び級で選ばれたフォワードの選手がいると。
カベなんとかという名前の――。
それがこのあどけない顔をした少年なのだろうか?
大作が激しい嫉妬心を抱かされた、天才少年というのは……。
大作は苦笑するしかなかった。
3
踊るようにピッチを駆ける。詰め寄る何人ものディフェンダーの間を、するすると抜けていく。ドリブルをすればボールを奪われることはない。そしてその変幻自在のドリブルの中から、長短正確なパスを繰り出す。
発足当時のJリーグを沸かせた天才。今の時代にいたなら『ファンタジスタ』と呼ばれていただろう。
ボールと踊る男――小須田塁。
少年はその輝きに向けて手を伸ばす。
いつも暗闇だった。
少年と母親の住む四畳半は、ビルとビルとの間にあり、昼間でもいつも薄暗かった。
学校から帰っては、化粧をして出ていく母を見送り、テレビもない部屋で一人、ボールを蹴っていた。
壁に当てないよう、床に落とさないよう、ガラスを割らないよう、やさしくやさしく、リフティングを続けた。
そのボールは父親からの贈り物だと母は言った。お前が産まれた時に父親が贈ってくれたんだよ、と。
大ちゃんおとうさんに会いたい?
うん、会いたいよ。
今、父の姿が目の前にある。
まるでスタジアムが大きな劇場で、父が主演男優でもあるかのように、父のプレーに視線が注がれ、父がボールを持つたびに歓声が沸いた。
華のあるプレーヤーだった。
テクニックだけなら、Jリーグの中にもっと上手い選手は数人いただろう。
身体能力に至っては普通の選手より劣ってみえるくらいだ。
それでも彼は観客の心をつかむのが上手かった。
観客が喜ぶタイミングでシュートを打ち、観客の驚きを誘うようにヒールキックやクライフターンを披露してみせた。
そしてゴールを決めた後には派手なパフォーマンスで、観客と喜びを分かち合った。
Jリーグ発足時の人気も手伝ってか、芸能人張りの人気者だった。
少年は必死に父の名を呼んだ。
しかしその声は会場を揺るがす歓声にかき消された。
暑い夏の日だった。
太陽が強く照りつけていたのを覚えている。
ピッチの上を陽炎がよぎった。
まるで父の姿が蜃気楼か何かのように思えた。
気がつくと視界がぼやけて、呼吸をするのも辛くなっていた。歓声が頭をガンガンと鳴らす。少年は必死に手を伸ばす。そこに父がいるかのように。
それから意識がなくなり、気がついたらベットの上に寝かされていた。
見慣れない部屋だった。学校の保健室に似ていると思った。
視覚がハッキリすると共に、聴覚も戻ってくる。
男と女の怒鳴り合う声が聞こえた。
一人は母の声だった。
話が違う……いや、お前だって最初は……スター選手だからっていい気になっていると……子供をダシに……大体が誰の子か……。
とぎれとぎれに聞こえる声。内容もほとんど理解できなかった。
少年はベットを降りて、声のする方へ向かった。
そして無造作にドアを開ける。
「大作?!」
母が驚愕の表情をみせる。少年はその母の顔から、言い合いをしていた男性の方へ視線を移した。
小須田塁。
少年の父親。
「…………やあ」
小須田はひきつった笑いを浮かべる。
「大きくなったなぁ……大作……元気に育っててくれて嬉しいぞ」
母はとても冷たい目を小須田に向けていた。
少年にはそれが何故か理解できなかった。
少年は小須田に向かって手を伸ばす。
その手が父の大きな手に触れた瞬間、父は露骨に顔をしかめた。
まるで何か汚いモノでも触ってしまったかのように、少年の手を軽く払い、スーツの裾でふき取るようにする。
全てを拒絶されたような気がした。
いつか父と一緒にサッカーで遊ぶ日を思い描きながら、四畳半でボールを蹴り続けた日々も。
歓声を浴びる父を誇りに思う気持ちも。
いつかはともに暮らせるのだという希望も。
全てが否定された。
その日、悪魔が少年の耳元で囁いた。
サッカーを否定しろ。
サッカーを破壊しろ、と。
小須田塁はその後Jでも一、二を争うトップクラブに移籍したが、レギュラー争いに敗れ、やけになって起こしたスキャンダルが表沙汰になり、JFLのチームへと移籍し、ろくに試合にも出ないまま消えていった。
そんな選手は他にもたくさんいた。
Jリーグ発足と共にまばゆい脚光を浴び、ブームの終息とともに消えていったスター選手達。
そのうちの一人として小須田塁の事は、人々の記憶から忘れ去られた。
空が真っ赤に燃えている。
母が倒れたと聞いた日も、こんな空の色をしていた。
大作は木々の合間から覗く黄昏を、睨め付けた。
父の残した借金のため、身を呈して働き、病床に倒れた母。
憎しみが、赤く、赤く、燃え上がる。
「どうしたの大ちゃん?」
圭吾が振り返り、馴れ馴れしく大作の名を呼んだ。
「早くしないと夜が来ちゃうよ。さすがに夜は移動できないからそれまでに抜け出さないとね……ここで一晩明かすなんてぼくは嫌だよ。虫多そうだし」
圭吾は自分の言葉に青ざめてみせる。
「そんな弱っちい精神で世界と戦うつもりかよ」
大作は意地悪く笑ってみせた。だが圭吾はとくに気にした様子もない。むしろ不思議そうな表情で言葉を返した。
「なんで? サッカーなんて遊びじゃん。別に殺し合いしにいくわけじゃないんだしさ。世界のスゲー奴らと、楽しく遊んでくるだけだよ」
「遊び……か」
大作は苦笑を浮かべる。
「天才少年だ、飛び級だ、と騒がれているけど、お前もそこまでの選手って事か……そんな気持ちでやっていけるほどプロの世界は甘くねーぞ」
「大ちゃんだってプロじゃないじゃん」
「ンナもん見てればわかるだろ? 今やサッカーはビジネスであり、代理戦争だ。プロの世界で遊びでやってる奴なんて一人もいないだろ」
「あー……」
圭吾はポカンと口をあける。
「大ちゃんはそんなにプロになりたいんだね」
大作はカッとなる。まるで嘲笑われたかのような気分だった。見透かされ、見下されたかのような。
「別に人は人でいいんじゃない? 大ちゃんは大ちゃん。ぼくはぼく。ぼくはサッカーを楽しみ、より楽しめるようにするだけ。プロになれたとして、それでサッカーがつまらなくなるなら、すぐにやめるよ」
簡単に言う。
すごく簡単に言う。
大作は苛立ちを抑えきれなくなっていた。
何も知らないくせに。
何も知らないくせに。
俺のことを何も知らないくせに。
俺がどんな気持ちでサッカーをやっているのかも知らないくせに。
味あわせてやりたいと思った。
自分の感じている苦痛を。
サッカーの苦しみを。
無邪気に楽しいという、こいつのサッカーを、とことん破壊してやりたいと。
ピーッ。
赤い空に、ホイッスルの音が鳴り響いた。
「今の音……」
大作が音のした方角に目を向ける。
「うん。ホイッスルの音だったね。もしかしたら合宿所に近いのかもしれない」
圭吾は顔を輝かせ、斜面を登り始める。大作は立ちつくしたまま、その背中をみる。
赤い、赤い、燃えるような空に消えていこうとする背中。
その炎の中でも、お前は笑っていられるのか?
俺が激しく焼かれた炎の中でもなお、サッカーを楽しんでいられるのか?
ふいに口元に手をあてる大作。
笑っていた?
気がつかないうちに口元がほころんでいた。
なんだか自分の中に、大きな別の誰かがいて、そいつが笑っていたような気がした。
気のせいだろう。
大作は後に続くように急斜面を昇り始めた。
4
フェンスの向こうに土煙が舞っている。
赤く染まった芝生。錆びたゴールポスト。無人のピッチに、風がながれていく。
「大ちゃん。こっち」
圭吾が手招きする。会ったばかりだというのに随分と馴れ馴れしい。
圭吾は足下に転がっていたボールを示す。
「たぶんここでサッカーをしてたんだと思うよ。あのホイッスルはここで鳴らされたものだ」
大作も頷く。
何度も聞いてきたホイッスルの音。
ホイッスルが鳴り響いた瞬間に顔を覆い泣き崩れる相手選手達。そしてピッチの中央でその光景を眺めている自分。
大作にとって一番満たされる瞬間だ。
あの音はいつもその光景を思い出させる。
「誰かいるかな?」
圭吾は足下に転がっていたボールをけり出す。
ただ単に進行方向へドリブルしているだけ。
それなのに大作はその所作に一瞬見とれてしまった。
足下に吸い付くようなボールタッチ。自然に歩いているかのように進んでいく。いっさい足元は見ずに。
圭吾はヒョイッとかがんで、ドリブルしたままフェンスに出来た穴をくぐった。
大作は思わず立ちすくむ。
そのフェンスの穴は、あまりに小さく大作がくぐれるようなものには思えなかった。
しかしこのまま置き去りにされるのも癪なので、無理矢理に穴を通ろうとする。
「イテッ!」
破れたフェンスが頬に引っかかる。大作は激痛に顔をしかめながら、大きな体をねじ込んでいく。
「大ちゃん」
声がかかり、大作は力を緩める。
「こっちから通れば?」
圭吾がすぐ隣にあったフェンスの扉を押し開ける。
ギィィィィという音が寂しく響き渡った。
大作はそのまま穴から体を引き、フェンスの扉から中へと入った。そして振り返り、忌々しげに扉を見る。
同じく金網で出来た扉は、正面に立たなければ見分けにくい。
「紛らわしい!」
ゆっくりと閉まりかけていた扉を蹴り飛ばす大作。
ガシャン。
扉は閉まることなく、反対側に倒れた。
「あーあ。壊しちゃった。知らないよ」
「ハン! こっちの方がわかりやすくていいだろ」
大作はそのまま振り返る。
「ぼくは関係ないからね」
圭吾も身を翻す。それと同時にボールが高く跳ね上がり、圭吾の頭上を越えて、ちょうど振り返った圭吾の足下にピタッと収まった。圭吾はその間、一度としてボールを見ていない。
大作は苦笑するしかなかった。
いとも簡単にやってくれる。同じ事は大作にも出来るが、あれだけ自然にしかもボール一度も見ないでとなると別だ。絶対に出来ないというわけではないが、失敗する可能性も大きくなる。
だが圭吾はまるで失敗することなんて考えてない。
まるでそれが日常的な動作のようにこなしている。
これがピッチの中で行えるなら。
これだけ自由自在にボールを扱うことを自然にやれるなら。
どれだけプレーの幅が広がるのだろう?
大作は思いっきり頭を振った。
何を考えている。
こいつの――壁凪圭吾のプレーを実際の試合で観てみたいなんて。
自分がそんなことを考えるなんて。
どうかしている。
他人の創造的なプレーに心躍らせるなんて、あってはならないことだ。
自分はそれを破壊するためにいるのだから。
「こっちの方に建物があるみたいだ」
圭吾はピッチを横切って、反対側のフェンスを抜ける。
森を切り開いたような道が丘の上に続いていて、丘の上に建物の屋根のようなものが見える。
おそらくはここで練習していた奴らが、そこにいるんだろう。
この辺はいくつかのスポーツ施設があることで有名だ。代表が利用する大型のものから、福岡清明が借りた小型のものまで。
丘を登っていくと、丁度沈みかけた夕日が視界に入り、網膜に焼き付く。
シグナルレッド――止まれ――危険を知らせる色だ。サイレンの赤。炎の赤。血の赤。
ザァァァァァッ!
唐突に暗闇が広がった。
「うわああっ!」
それが圭吾の悲鳴か、自分のあげたものかはわからなかった。
カァッ!
高らかに響く鳴き声。
赤い空に舞い上がった、無数の黒き翼。
視界を覆ったのは飛び立つカラスの大群だった。
カラス達は赤い空を二、三度旋回した後、再び地上を目指して舞い降りる。
丁度建物のある方の、木の枝へ。まるで大作達を待ち受けるように。
そのカラス達の止まった木の下にベンチがある。
そこに一人の男が座っていた。
艶やかな黒髪。アイボーリーブラックのスーツがすらりとした長身に似合っている。切れ長の瞳が手元の文庫本に向けられている。文庫本のタイトル表紙には『カラマーゾフの兄弟』と書かれていた。
視線が手元の文庫本から大作達に向けられる。
ぐっと吸い込まれそうになった。
まるで奈落に落ちていくかのような感覚。
男は立ち上がり、大作達の方へとゆっくりと歩き出す。
一匹のカラスが高らかに鳴き声をあげた。
近づくに連れ男が思った以上に長身であることに気づかされる。
190センチの大作ほどではないものの、それに近いものはある。何よりもそのスラリとのばされた背筋が、より長身にみせていた。
無表情に大作達を見る双眸。
何の感情も伺えない。ただその黒き二つの水晶に、大作達を映しているだけ。それだけで囚われたような気持ちになる。その瞳から逃れることは許されない。
「どうも……ぼくたちは」
圭吾があいかわらずドリブルしたまま、一歩前に出る。
「――!」
圭吾の表情が曇る。足下からボールが消えていた。
「忘れ物を返しに来てくれたのか」
ポンッと音が響く。
見ると男の手元にボールが乗っていた。
大作は驚愕する。
ただすれ違っただけにしか見えなかった。
まるで手品のように一瞬でボールが圭吾の足下から男の手の中へと移動していたのだ。
「ありがとうというべきか……壁凪圭吾に。十河大作。それとも敵情視察のつもりか? それなら残念だったな……移動の疲れもあって練習は早めに切り上げた」
大作は再び驚かされる。何故自分の名前を知っているのか。確かに何かの雑誌に小さく載ったりしたことはあるが、実際に初対面の相手に名前を呼ばれるとドキリとする。
「敵情視察だなんてっ! とんでもないですよ。ウォン・ウェイミンさん。たまたま迷い込んじゃっただけです」
圭吾はにこりと男に笑いかけた。
ウォン・ウェイミン。
その名前は大作も聞いたことがある。
在日韓国人Jリーガーにして、若干十七歳の若さでフル代表に選ばれた選手。
彼を含めユースから四人のフル代表昇格組がいて「恐るべき子供達」だとか「幼き四天王」などと呼ばれていた。
バルセロナのユースで育ち、マンチェスターユナイテッドに移籍したという変わった経歴の持ち主『闇夜の爆撃機』――チャン・ハギュン。
国内リーグで新人王とアシスト王を獲得した『冷酷なるマエストロ』――イム・ヒョンジュン。
すでにフル代表のレギュラーに定着し、韓国のゴールキーパーは二十年安泰と言わしめる『瞬間移動』――シン・ジェヨン。
そしてホン・ミョンボの後継者ともいわれ、現フル代表監督ウォン・ジェギュの実子でもあるウォン家三兄弟の末っ子『背徳の貴公子』――ウォン・ウェイミン。
彼ら四人を擁した韓国ユースと日本ユースが韓国国内で対戦し、日本が0−7で大敗し、日本の監督が更迭されたことで一時期話題になった。
韓国の黄金世代を支える一人。
「怪我をしているのか?」
ウェイミンが鋭い視線を大作に向ける。大作が自分の頬に触れると、鋭い痛みと共にベッタリと指先に血が付いた。
さっきフェンスを無理矢理くぐろうとした時に切った傷だ。
「消毒した方がいい。来い」
ウェイミンは踵を返し、二人を導くように歩き出す。
圭吾は何の迷いもなくそのあとに続いていった。
大作は指先についた血を舌でぬぐう。口の中に苦い鉄の味が広がった。
まるでその血の匂いでも嗅ぎつけたかのように、カラス達が増えていた。
夕日は消え、今は真っ暗な夜のとばりが降りかけている。あと数分もすれば完全な闇夜になることだろう。
シグナルレッドの向こうに待っていたもの。
深い深い闇。
引きずり込まれそうな黒。
不安が大作を支配する。
ハン!
大作は小さな声で笑い、自分を奮い立たせた。
何を恐れることがある。
闇を恐れることなんてない。
脳裏によぎる暗く狭い四畳半。
母の帰りを待ち続ける長い夜。
たった一人の夜。
暗闇はいつも傍にあったはずだ。
いつも。
大作は視線をあげ、深い闇を一歩踏み出した。
ポツリと鼻先に何か冷たいものが触れた。
空を見るといつの間にか厚い雲でいっぱいになっている。
ポツリ、ポツリ……ポツ、ポツ、ポツ。
雨脚が急激に強くなる。さすが山の天気といったところか。
「大ちゃん早く!」
圭吾の声がする。大作はその声に向かってかけだした。
遠くに雷鳴が響いたようだった。
5
南条織恵はため息をつき、たたきに脱ぎ散らかされた靴を蹴って端に寄せる。
二階から騒がしい声と共に、バタンバタンという音が響いてくる。部活帰りで疲れているところに騒音のお出迎え。織恵はうんざりした気分になる。
この年代の子供達は日本人だろうと韓国人だろうと変わらないんだなと、自分の靴を下駄箱に放り込み愛用のスリッパに履き替えようとする。
だが従業員用のロッカーから、自分のスリッパが消えていたのに気づき、再びため息をついた。
また、お母さんかな。
織恵の両親は、共にこの宿泊施設で働いている。スポーツ施設のためか夏休みなど大型の休みが来るたび、やれどこどこ高校の合宿だなどと忙しくなり、織恵も手伝いにかり出される。
織恵自身も、この時期は両親共に泊まり込みになってしまうため、誰もいない家に帰るよりは、ここに帰る方がいろいろと楽だった。
織恵は仕方なく客用のスリッパを履く。少し大きくて、なんだかいつも履いているものと違い違和感を感じた。
何かとストレスが溜まることが多い。
麓の高校から部活を終えて帰ってきて、疲れているところに雨に降られ、さらには今から子供の相手をしなくちゃならない。
それでも今回宿泊しているのは韓国代表ユースということで少しは気が楽だった。
これがどこかの高校生となると、織恵に何かとちょっかいをかけてくるので、さらにストレスを溜めるところだったろう。
とくに中学生や高校生となると、発情期の猿みたいなもんだ。
織恵自身も絶世の美女というわけではないが、小柄で健康的なうえに顔立ちも整っている。部活のために長い髪を切ったら、クラスメイトの女の子達に「もったいない。すごく似合ってたのに」といわれるくらいには女の子らしい顔立ちをしている。
手がでないほどの美女ではなく、声をかけやすいくらいのかわいらしさが、こんな事態を招いているのでは、とクラスメイトが分析してくれたこともあった。
織恵はそのまま廊下を進んで施設の奥へと向かう。廊下を曲がり厨房の前を通りかかったところに、割烹着姿の母が慌てて飛び出してきた。
「あら? 織恵。帰ってたの」
織恵はただ頷く。母は額から汗を流していた。スタッフや通訳を含めると三十人近くなるお客様の料理を一度に出すというのはそれなりに骨のかかるものだ。
普段から大勢のお客様を相手にしている大型旅館などとは違い、期間限定でバイトを雇ってまかなっている施設である。やはりお手伝いのバイトが慣れるまではてんやわんやたである。
「ちょうどよかった。お風呂閉めてきてもらえる」
「えー。ちょっとゆっくりしたいんだけど」
「みんな忙しいのよ。我が儘いわないの。あんただってバイト代もらってるんだからね」
母はそういって食堂へ向かっていく。テーブルセッティングしたりするためだろう。
織恵は口をとがらせたまま、厨房の前を通り過ぎた。甘いいい匂いがした。
後ろ髪引かれる思いで、浴場へと向かっていった。
ここの施設は温泉旅館などとは違って九時にはサーモスタットを止めて、お湯を抜いてしまう。今日はしかも男性客しかいないため、男風呂しかお湯をはっていない。
県の施設であるものの、何かと経費にはうるさいので、いろいろなところで経費削減に力を入れているのだ。
織恵はあいかわらず口をとがらせたまま、出しっぱなしの桶を片づけたり、締まりきっていない蛇口やシャワーをしっかりと締める。それからモップをもってきて浴場を見渡すと、なんだかため息が出た。
織恵の所属する女子サッカー部では最後に一年が部室の掃除をすることになっている。
織恵を含めて五人しかいない一年生。しかも三人は里帰りということで、織恵ともう一人でボールを片づけたり、部室の掃除をしなくてはならなかった。
夏の空気がこもった部室の掃除は本当に大変である。
そのうえ帰ってまで掃除をやらされるなんて、本当にうんざりだった。
お湯を抜こうと浴槽に手をつっこむと十分に温かかった。
どうせ誰も来やしないし。
織恵はそのまま制服と下着を脱ぎ、丁寧にたたんで使ってない桶にしまうと、浴槽に飛び込んだ。
部活でかいた汗、蒸し暑い部室を掃除したときの汚れ、帰りの道で疲れ果てた疲労感、全てが湯船に溶け出していくような解放を味わう。
そしてそのまま誰もいないことをいいことに、ちょっと泳いだりもしてみた。
母に見つかったらどれだけどやされる事だろう。
だけど誰も浴場を見に来るほどの余裕は無いはずだ。
お風呂の時間は終わっているし、まさに貸し切り状態だ。
織恵の所属する女子サッカー部は何かとミーハーが多い。やれどこどこの選手がかっこいいだの、可愛いだの。誰のプレーが好きだの。
はっきりいって織恵はプロサッカーには何の興味も抱かなかった。
それこそ参考になるプレーをみたりはするものの、応援したりとか、そんな風に盛り上がってみることは出来なかった。
サッカーはプレーして楽しむもの。人がやっているのを見るより、絶対その方が何倍も楽しいと思う。
だからもっと真剣に練習をしたいのだけど、遊び感覚でやっている先輩達とのギャップが織恵を苦しめる。一人で練習しようものなら、スカしていると目をつけられる始末だ。
織恵は湯船に潜って、ため息の気泡を吐き出した。水面がゆらゆらと揺れている。
このまま潜っていたら死んじゃうのかな?
ふとそんな考えが頭をよぎった。
別に自殺願望があるわけじゃない。現状が死にたいほど苦しいわけでもない。
それでもなんだかとても疲れた気分だった。
胸が締め付けられるように苦しくなった。悲しいことを想像したからか、酸素が足りなくなったためかわからなかったけど、頭を水面から出そうとした瞬間。
ザブンッ! と大きな音が響いた。
織恵は慌てて水面から頭を出す。
そして目の前に人影を見つけると「うわぁぁっ!」と大きな声を出してしまう。
そこは「きゃあ!」と女の子らしく悲鳴をあげるところだろと、自分でしょうもないことを考えてしまった。
浴槽につかっているのは、とても長身でガタイのいい男だった。坊主頭に彫りの深い顔立ち。鋭い視線で織恵を一瞥し「なんだ……ガキか……」とつぶやいて、視線を明後日の方向に向けた。
織恵は浴槽に縮こまって男をにらみつける。
「あの……入浴時間は終わってるんですけど……」
「あん? お前だって入ってるじゃねーか」
「私は従業員です」
「こっちは疲れてるんだよ。試合が終わって、そのままずっと山道を歩いてきて、くたくたなんだ」
疲れているのは自分だって同じだと、織恵は胸中で毒づいた。
「そんなのあなたの勝手でしょ。ルールは守ってもらわないと」
「知らねーよ。なんか韓国の監督さんが使っていいっていうからよ」
この施設は韓国の監督の持ち物じゃない。
「第一、あなた誰なんですか? 韓国の選手じゃないですよね」
たしか在日韓国人の選手が一人いた気がするけど、こんな無骨な奴じゃなく、もっとスマートな人だった。
「道に迷ったらここにたどり着いたんだよ。そしたら韓国の監督と旅館の人が相談して泊めてくれることになったんだ。夜も遅いし、車を出せる人手もないとかでさ」
なんて調子のいい奴なんだろう。タダで泊まって、しかもこんなでかい態度で入浴時間外に風呂につかるなんて。
しかしそのことを誰かに告げようにも、自分がサボって風呂に入っていたことがバレてしまう。
結局は誰にも言えない。
「こっちみないでくださいよ」
織恵はそう忠告して湯船からあがろうとする。
「ああ、わかった」
と男は織恵の方をみて返事をした。織恵はそのまま浴槽の脇にあった桶を思いっきり投げつけた。
パカンという音をたてて、木製の桶は見事に男の額に命中した。
そして男はそのまま仰向けに倒れる。
「え?」
男の額からあふれ出した血が、浴槽を真っ赤に染めていく。
「ウソ……」
小さなつぶやきが、浴場に木霊した。
きっと今日の運勢は最悪に違いない。
韓国代表チームに帯同していたドクターに包帯を巻いてもらいながら、大作はやり場のない怒りをため込んでいく。
「まったく何をやっているんだか……」
圭吾が逆向きに椅子に腰掛け、背もたれの天辺に顎を乗せるようにし、大作に呆れた視線を投げかける。
椅子が少し高いせいか、足をぶらぶらさせていた。
「女風呂覗いて、見つかりそうになって逃げる時に転んだんだって?」
「勝手に話を作るなっ!」
大作は怒りにまかせて椅子ごと蹴り飛ばす。
「うわわわっ!」
圭吾は椅子と共に、仰向けに倒れそうになる。
受け身をとらなきゃ。
そう想った瞬間、背中を強い力で押された。
すとん。
再び元の位置へと戻される椅子。圭吾は何が起こったのか分からず目をパチクリさせ、振り返る。
そこにウェイミンが立っていた。
いつの間に部屋に戻ってきたのか、いつの間に背後に立っていたのか。
「ひとの部屋で何を騒いでいる」
ダークグレーの瞳が、冷たく大作を映す。
「十河大作」
ウェイミンに名前を呼ばれ、大作は眉間に皺をよせる。
「明日、俺たちのチームがお前の高校と練習試合をやる」
「え?」
「なんだ……そんなことも知らないのか?」
松根監督のミーティングは長く、道徳の授業のように人としての在り方などサッカーと関係ない話も多いため、大作はあまり真面目に聞いてなかった。とくに所属している二軍以外の一軍や三軍、四軍のスケジュールや対戦相手にたいして興味を抱かなかった。
今はユース代表で引き抜かれたり、最近流行の夏風邪になったりでフォワードが不足し、一軍に帯同しているものの、今後の予定に関してはさっぱりわからないままだった。
「まあ試合といっても、四日後の日本ユース代表との試合に向けた、20分4本で交代自由の調整みたいなもんだけどな……うちの監督がお前のところのサッカー部監督と話して、試合の際に送り届けると言うことになった。それまでは大人しくしていろ」
大人しくしていろ。
随分な物言いだな、と大作は鼻で笑った。
別に誘拐されたわけでもないのに。
「それにしても羨ましい限りだな。韓国ユース代表ともなると個室かぁ」
大作は部屋を見渡す。
おもに大部屋に泊まらされることの多い大作としては、羨ましい環境だった。
「いや、二人部屋だ。うるさい奴がもう一人いるんだが合流が遅れている。間違えて成田に着いたから東京観光してから来るそうだ」
「あはは、随分おもしろい奴がいるんだね」
圭吾は足をぶらつかせて「韓国の監督は随分と寛大なんだね」と笑う。
「特別扱いはアイツだけだ。規律を乱しても、練習をさぼっても、ゴールを決める。絶対的なエースだからな」
大作は顔も知らない相手に、かすかな嫉妬心を抱いた。特例さえ許される絶対的なエースストライカー。それは大作の目指すところだ。
どれほどのプレーヤーなのだろう?
特例が認められるというのは。
大作がそのプレーヤーについて尋ねようとした瞬間、先を越してウェイミンが話題を変える。
「そろそろ飯の時間だ。ついてこい。施設の人たちがわざわざお前達の分まで用意してくれたそうだ」
「やったー」
圭吾が椅子から飛び跳ねるようにして立ち上がる。
「あとで礼を言っておけよ」
ウェイミンはたいして関心も示さずドアをあけ、さっさと部屋を出て行った。圭吾が慌ててそのあとを追いかけていき、大作も少し遅れて部屋を出た。
結局、尋ねるタイミングを逸してしまった。
だがまあいい。
今はまだ他人のレベルをどうこう言っている段階ではない。ユースレベルでの絶対的エースストライカーなど通過点に過ぎないのだから。
自分の目指すものは、もっと遙か先にあるのだ。
先を行く韓国ユース代表ウォン・ウェイミンの背中。その少し後ろからウェイミンを追いかける、飛び級でU18ユース代表に選ばれた壁凪圭吾の背中。
いずれは追い抜いてみせる。
追い抜かなくてはならない。
胸の奥で黒い炎がすこし揺らいだ。
食堂に入った瞬間、まとわりつくような視線を感じる。
そして嘲笑と侮蔑の言葉。
ふん。
ウェイミンは鼻で笑ってそれらを振りほどき、席に着く。
もう慣れたことだ。
シンチョンにある韓国サッカーアカデミー。海外から優秀な指導者を招き、クラブユースなどの存在しない韓国の子供達にサッカーの英才教育を施してきた機関。
ウェイミンは十歳になる頃に、当時韓国代表のコーチを務めていた父――ウォン・ジェギュの推薦もあってアカデミーに入ることが出来た。
そして同世代の才能ある子供達と共に、韓国黄金世代を築き上げていった。
だがウェイミンが十五の時に事件は起きる。
父が不倫していたことが明るみに出て、代表コーチの座を退いたのだ。
それと同時にウェイミンは自分が不実の子であることを知らされた。
どこへ行くにもスキャンダルがついて回った。
サッカーに集中することも出来ず、父や兄弟とも疎遠になったウェイミンは、ある日、日本に行くことを決意した。本当の母に会うため。
そして母と再会を果たし、母と暮らすことに決めた。
だがそれと引き替えに韓国メディアはウェイミンを糾弾し始めた。
裏切り者として。
そもそもアカデミーの設立にはいくつかの企業が噛んでいて、卒業生は企業がスポンサーするチームへと入団する手はずだった。ドラフト制度廃止前にはなかったルールで、暗黙のルールとも言える。
しかし暗黙のルールといえども、破れば白い目で見られる。
企業としては出資している以上、利益を上げたい。だが英才教育で育てた選手が他へ流れていってしまっては、ただのボランティアになってしまう。
それゆえにアカデミーの教育を受けておきながら、日本へ行き、Jリーグのクラブに身を置いたウェイミンの行為は背信ととられた。
父のスキャンダル。反日感情。さまざまなものが混ざり合ってウェイミンは徹底的に糾弾される。
とくに同世代の選手からの非難は酷かった。この世代の選手の中にはアカデミーの卒業者、またはアカデミーに入ることが叶わなかった者が多いからだ。
そうした者達からみれば、ウェイミンは父の権力で試験もなくアカデミーに入り、しかもルールを破って裏切った者としか映らない。
代表招集を受けてチームに合流するたび、ウェイミンはまわりの冷たい視線にさらされた。
だが招集を辞退すれば辞退したで、また祖国を裏切ったなどと叩かれるだろう。
少なくとも誰も直接手は出してこない。
ドイツで監督につき、弱小チームをドイツ国内カップ戦にあたるDFBカップ優勝にまで導き、韓国代表監督に就任する形で凱旋した父の影響だろう。
恐れ、嫉妬、憎しみ、侮蔑。さまざまな視線がウェイミンに降り注ぐ。
「なんか嫌な感じ」
席に着くなり圭吾が周りの視線が妙なことに気づく。
「そうか?」
大作は気にした様子もなく、皿うどんをバリバリと食べ始めた。
「なんかね」
圭吾が振り返ると、韓国選手の一人と目が合う。その選手はにやけた顔で「なんだ、ウェイミン。さみしくなって日本人のお友達を呼んできたのか?」と周囲の笑いを誘った。
「なになに? なんて言ったの?」
韓国語が分からず、ウェイミンを見る圭吾。ウェイミンはため息混じりに「試合ではお手柔らかに、だとさ」と嘘をつく。
「おー! こちらこそよろしく!」
大声で手を振る大作。韓国の選手達は「なんだアイツ?」などと言いながら眉を顰める。ユース代表監督のキム・ジンヒは「元気な奴だ」と楽しそうに笑った。
「こちらこそよろしくって――大ちゃん、明日の練習試合出られるの?」
圭吾に痛いところをつかれて大作は顔をしかめた。
「福岡清明はフォワード不足だろう? 20分を4本の練習試合だ。チャンスはあるんじゃないのか」
大作の代わりにウェイミンが答える。
「お前よく知っているな」
大作はウェイミンに感心した視線を向けた。
「対戦相手の情報は事前に把握しておくものだ。ホイッスルが鳴る前から試合は始まっている」
とはいえ練習試合の相手まで分析するものか? と、大作は小さくため息をつく。自分じゃとても真似は出来ない。
そういえば初めてウェイミンと出会った時、彼は大作や圭吾の名前を呼んでみせた。それは偶然知っていたということではなかったのだ。練習相手の選手として、そしてその後あたるユース代表の選手として、二人のことは調べ上げていたと言うことなのだろう。
戦ってみたい。
ピッチの上でこの男と戦ってみたいと思った。
自分をどのように分析したというのか。韓国黄金世代の選手がどれほどの者なのか。
闘争心がわき上がる。
大作は唐突に立ち上がる。勢いで椅子が倒れ、韓国選手達の視線が集まる。
その視線を楽しむかのように、大作は三つの指を天にかざした。
「ハットトリックだ! 明日の試合で必ず三点以上獲ってやる!」
高らかに叫ばれた宣告だが、誰一人として日本語がわからずに顔をしかめる。
「おい。ウェイミン。そいつはなんと言っているんだ?」
キム監督が座ったまま箸で大作わ指し、ウェイミンに尋ねた。
ウェイミンは少し迷ったあげく、無表情にそのまま通訳してみせた。
一気に食堂が殺気立つ。
韓国選手達の顔付きが変わる。
侮辱され怒りを露わにする者。やってみろと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべる者。無言で大作を観察する者。
正解だった。
そのまま内容を伝えたことで、選手達は観光気分の穏やかなムードから、一気に闘争本能むき出しの引き締まったムードへと変化した。
これで充実した練習が行える。観光気分のまま夜更かししたり、油断した状態で試合にはいられては、せっかくの練習試合がただのストレッチになってしまう。
事はウェイミンの思惑通りに運んだ。
「威勢のいいガキだ! 気に入ったぞ!」
キム監督が笑って、ディフェンスリーダーのチャ・サンボムに「おい! お前ら気をひきしめろよ!」と言い放つ。
サンボムは俯いたまま、丸刈りの仏頂面に怒りを滲ませ「やられませんよ」と小さくつぶやいた。
大作は周囲の視線を一点に集め握りつぶすようにつき出した三本指を納め、倒れた椅子を起こし座る。それから豪快に食事を再開した。
圭吾は悪ガキのように、大作を見て楽しそうに笑っていた。
こいつ、面白い奴。
明日は福岡清明の練習試合を見ていこうと思った。もしかしたらユース代表の選手として追い出されるかもしれないが、どこかから忍び込んでも見るつもりだった。
それは対戦相手の韓国ユース代表を観るためではなく、十河大作という男のプレーを観てみたかったからだ。
気持ちはすでに明日の試合へと馳せていた。
6
昨晩から小降りながら降り続いた雨で、山の朝は霧に包まれていた。
雨上がりの心地よい空気に包まれ織恵はおもいっきり背伸びする。そして小さな顔の頬を両手でかるく叩いた。
日曜の朝。
今日は部活も休みだった。
部活仲間達は今頃デートに買い物にと出かけるためにお化粧したり、洋服を選んだりしている頃だろう。
だけど自分はこうしてノーメイクのまま、ジャージ姿でひとり山奥に立っている。
早朝ランニングは部活のない日でも欠かしたことはない。
一日一日の積み重ねが差をつけるのだ。
そう自分に言い聞かせていた。
それでもやはり誰一人としてついてこないことは寂しかった。
せめて同じようにがんばっている仲間でもいればと思う。
励まし合える仲間でもいれば。
「あ、昨日の!」
後ろから声がして振り返ると、そこにはしかめ面の大作が立っていた。
包帯を隠すように深めに黒いバンダナをしていて、頬の傷が生々しい。
もともとの彫りの深い顔立ちもあってか、ヤクザ者にしか見えない。
「いっとくけど謝らないからね!」
織恵は口をとがらせる。
「あー、別に……あのぐらい避けれねーとな。油断してたとはいえ、ストライカーとしては常にあらゆる状況で即座に反応しねーと」
「あんたもフォワードなんだ」
同じポジションということで、織恵は少し大作に興味をもった。
「あんたもって……お前もサッカーやってんのか? ああそれでそんな格好してるのか」
大作は織恵のジャージ姿をしげしげと見る。織恵は怪訝な顔で睨み返してきた。
「あいかわらず野良猫みたいな奴だな」
大作は笑った。織恵はバカにされたような気がして反論しようとした、だがそれよりも先に「つき合えよ」と大作が言い放つ。
「は? つき合う?」
一瞬、頭が真っ白になる。
何故か頬が紅潮する。胸が高鳴る。
何言ってるの?
え? はい?
あまりに唐突な言葉に混乱する。
「つき合えよ。ランニング。どうせお前もそのつもりだったんだろ?」
「え? ランニング?」
「あれ? 違うのか? ただのジャージマニアとか?」
織恵は小さな顔を真っ赤にして、眉間に皺を寄せ、大作をにらみつけ、より怒りを如実に表す。
紛らわしい言い方しやがって!
思わずドキドキしてしまった自分が恥ずかしかったのも相まって、怒りは倍増していた。
「俺はいずれはプロになる男だぜ。光栄に思え」
「プロサッカーなんてくだらない」
織恵は吐き捨てるように言った。
「あんなの観ていて何が楽しいのって感じ。所詮は他人事でしょ? 勝とうが負けようが自分には何の関係もないじゃない」
今度は大作が呆然とする番だった。
プロサッカーの否定。
それは大作も同じだった。
サッカーを破壊するため。
あの華やかに輝いていた父の幻影を叩きつぶすため。
自分はプロのピッチに立ちたいのだ。
気がつくと織恵は先に走り出していた。
プロサッカーを否定しながらも、サッカーをする女か。
大作は後を追うように走り出した。
プロになる男。
ふざけたことをいう奴だと思った。
だが確かに大口を叩くだけはあると思った。
気がつけば織恵の少し前を走る背中。
あれだけ走ったというのに行き一つ乱れていない。
普段から相当走り込んでいるのだろう。
高校のクロスカントリーの行事があって、陸上部の男子と走ったりもしたが、誰も織恵にかなうものはいなかった。
だがこの男の体力はどうだろう?
もって産まれし身体能力、そして日々の鍛錬。そのすべてが収斂されている。
プロになる男。
確かにこういう男がそこへたどり着くのかもしれない。
なんだろう?
大作の背中が、かすんで見える。
朝霧のせいか。
遠くに見える。
日々鍛錬を積んでいるのは自分も同じ事。
だがこの男との間には決定的な差があるように思える。
真剣さ。
それを越えたもの。
必死さ。
それを越えたもの。
黒い炎がみえる。
より濃密にした怒りのようなエネルギー。
復讐心。
なんだか怖い。
織恵は背筋が震えるように恐怖を感じた。
これはスポーツのための走りではない。
追いつけるはずがない。
そもそも目指している先が違いすぎる。彼が行こうとしているのは、もっともっと遠いところ。
気がつくと大作の背中は、本当に見えなくなってしまっていた。
息が乱れる。
そんなに走ったわけではないのに、これほどに息が乱れるなんて。
それだけのオーバーペースだったということだ。
怪物だ。
あれが怪物というものだ。
そんなものは遠い存在だと思っていた。
おとぎ話のようなものだと。
だけど実際にいるんだ。
プロになる定めをもったもの。
「おーい! 何やってんだー! 休憩かー」
朝霧の向こうから大作の声がする。
走らなくては。
織恵は乱れた息を無理矢理に飲み込み、再び足を踏み出す。
一歩一歩確かめるように。
自分のペースでいい。
とりあえず行けるところまでアイツを追いかけてみよう。
もしかしたら、その先に何かが見えるかもしれない。
ずっとずっと一人、宛もなく濃霧の中を走っていた。
でもやっと目指す先が見えたように思える。
迷う必要はない。
ただ走ればいい。
一点を目指して。
爽快な気分だった。
霧が少し晴れたように思えた。
施設のロビーにある電話コーナー。
キム監督は渋面のまま、ところどころ塗装のはげた受話器を戻した。そして振り返り、ジャージ姿のウェイミンを見る。
「ハギュンの奴。まだ東京だそうだ」
「そうですか」
ウェイミンは顔色一つ変えない。
「まいったな……ヨンスをフォワードに回すか? だが、そうすると右ウィングをやれるやつが……」
そもそもKリーグのスケジュールと重なったため、イム・ヒョンジュンやシン・ジェヨンらレギュラークラスを含むクラブ所属の選手はほとんどが招集できなかった。ならば下のカテゴリーから引き上げようと思ったが、U−16の選手達は同時期にアメリカで行われるユースカップに参加することになっていた。そのため今回は最少人数で来日している。前回7−0で勝ったという余裕もあって、それで十分だと協会の連中は判断したのだ。
特にフォワード陣が壊滅的だ。
不動のエース――チャン・ハギュンがいれば大丈夫だろうと、控えを一人しか連れてこなかった。そしてその控えの選手も、昨日の練習で膝の痛みを訴え、無理はさせたくない状況だ。
たかが練習試合。勝敗に意義はない。だがせっかくの練習試合に慣れない布陣で挑んで、無駄に時間を割くのも馬鹿らしい。
それならばいっそのこと中止にしてしまった方がマシだ。
キム監督は薄い頭をかきむしった。
その時、玄関口の方から自動ドアの開く音がした。
顔を上げると大作が松根監督に連れられて、キム監督達の方に向かってくる。
松根監督を見たキム監督の印象は、古武術の達人だった。刈り上げられ白髪交じりの頭に、ずんぐりとした体型。どことなく威圧感を感じる初老の男。丸みを帯びた顔付きで、穏和な印象を与える自分とは対照的な感じだった。
「この度はどうもうちの生徒がご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げる松根。キム監督はウェイミンの通訳を介して、笑顔をつくり気にしないでくれと手をひらひらさせる。
「まあ若いうちはいろいろと無茶したがるもんですよ。最近の連中は逆におとなしいくらいだ。そのぐらいの元気があった方がいい」
キム監督は笑顔のまま大作を見る。
「なあ、今日はうち相手にハットトリックしてみせるんだろ? 楽しみにしてるぞ」
ウェイミンが通訳すると、大作は黙ったまま唇を噛み、明後日の方向をみる。
「ん? どうした? 今日は元気がないな」
キム監督は大作の顔をのぞき込む。
「本日の試合にこいつを出場させるつもりはありません。しばらくは謹慎です」
ウェイミンはそれを聞き、通訳しながら大作を一瞥する。大作はふてくされたように、何もないロビーの壁をみている。
「そうですか……残念ですな……」
そう言いながら、キム監督の頭に閃くものがあった。
「それならばもう少し預からせてもらえませんか?」
唐突な言葉にとまどいつつも、ウェイミンはそれを通訳する。松根監督は微かに眉をつり上げてキム監督を見た。
「実はフォワードの合流が遅れていて、さらに控えの選手も足に不安を抱えしまい、フォワードが足りなくて困っていたのです。そちらから選手を一人お貸し頂ければ嬉しいのですが」
キム監督の提案に松根監督も大作も驚きを露わにする。
松根監督は少し思案するように目を伏せる。それから大作の顔を見た。
挑むような視線を向けてくる大作。試合に出させて欲しいと媚びへつらうわけでもない。
まったく入部当時から手に余る奴だった。
中学時代に並はずれた身体能力をふりかざし、向かうところ敵なしだった大作。しかしながらチームメイトに恵まれず地方の大会止まりの男だった。
それはたまたまだった。
図師というテクニシャンな選手がいるからと、スカウティングをかねて中学生の試合を観に行った時だ。
たまたま相手チームに大作がいた。
大作は三人ほどのマークを振りほどき、自分の目の前でゴールを決めてみせた。
中学生離れした体格と、それを活かしたテクニックは高校でも通用するレベルにあった。
だがボールが彼の元にまわってこない。そうこうしているうちに逆転され、ついには苛立ちから暴言を吐き退場させられた。
ユニフォームを脱ぎ捨て、スタンドに戻ろうとする大作に松根は声をかけた。
松根には確信めいたものがあった。
こいつがいれば再び福岡清明は高校サッカーの頂点を極められる。
いやそれどころか、この男には将来日本サッカー界を担えるだけの力がある、と。
数十年に渡るサッカー人生。育てた選手の中にはJリーガー、日本代表へとなっていった者も数多くいた。だがこれだけの逸材に出会えたのは初めてだった。
育ててみたい。
最近の不振から、後進に道を譲ろうと考えていた松根の気持ちに、再び灯がともった。
入学してからもトラブルの絶えない大作。
もし彼が敵として立ちはだかったならどうなるだろう?
松根には自信があった。三年間育ててきた福岡清明のディフェンスライン。いくら韓国黄金世代であろうと、同年代相手ならそれなりに通用するはずだと。
大作がこのディフェンスラインにどこまでやれるか。
韓国黄金世代と共にプレーすることで、何かを得られるのか。
松根は覚悟を決めて、キム監督に頭を下げた。
「こいつのことをよろしくお願いします」
ウェイミンがキム監督に伝えると、キム監督は微笑んだまま手を指しだし、握手を求めた。松根は握手をしながら、もう一度軽く頭を下げた。
ウェイミンは大作をみる。とくに喜んでいる様子でもない。てっきり飛び上がって喜びを表現するかと思っていたが。
「あまり嬉しそうじゃないな」
大作は「アップしてくる」と踵を返す。そして肩越しにウェイミンを見て、小さくつぶやいた。
「あんたをぶっ倒したかった」
大作は、そのまま悠然と立ち去っていく。
松根は苦笑いを浮かべ、もう一度キム監督に頭を下げた。
「ガキが……」
ウェイミンは口元を微かにほころばた。
赤いユニフォームに袖を通すと、少し窮屈だった。
「うっわー、かっくいー」
圭吾は目を輝かせ、国代表のユニフォームを着た大作を見る。
「10番だよ。10番」
「別に俺の番号じゃねーよ。もともとの持ち主の番号だろ」
韓国ユース代表不動のエース――チャン・ハギュン。どうやら自分よりもずっと小柄な人物らしい。
まわりの選手達がじっと大作を見てくる。
昨日、自分達にあれだけの啖呵をきってみせた相手がチームメイトになっているのだ、無理もない。
そして少し離れた集団――福岡清明の方からも視線を感じる。
いまごろどんな話をしているのだろう? 普段目の敵にしていたチームメイトが敵となった今。思い知らせてやろうぜ、などと話しているのだろうか?
「ぼくも出たいなー」
圭吾が物欲しそうに大作のユニフォームを引っ張る。
「お前は無理だろう。次の対戦相手なんだからな。第一、ここにいられることが特別だと思え」
日韓代表戦。
意地をかけた戦い。それはユース世代でも変わらない。
そんな舞台に日本代表のユニフォームを着て立つことが出来る圭吾。大作は嫉妬を覚えずにはいられない。
だが今は試合に集中する時だ。
集合の声がかかる。
キャプテンマークを付けたサンボムが何かを告げる。韓国チームから地鳴りのような声が上がる。
ハーフウェイラインを挟んで向かい合ったチームメイト同士。図師陽介はベンチから不思議な目でその光景を眺めていた。
まったく人騒がせな奴だった。
試合で暴れて交代させられ、そのまま控え室で暴れて爆睡し、罰として置いていかれた。かと思えばそのまま行方不明になり、なんと今度は韓国ユース代表のところにお世話になっているとか。
かなりの問題児だ。
監督もなにかと大変だろう、と松根の方をみる。
松根は真剣な面持ちでピッチへと視線を向けていた。
図師は背筋を正す。
ただの練習試合のムードじゃない。
ベンチには張りつめた空気が走っていた。
そうだ。このチームは飢えている。
名門と呼ばれながらもここ数年はタイトルから遠ざかり、一部では古豪と呼ぶ声も聞こえる。
とくに入学してから何のタイトルも獲れていない三年生達はこの一年に賭けていると言っても過言ではない。
だから確かなものを手にしたがっていた。
打倒韓国。
日本代表を赤子のようにあつかった黄金世代と呼ばれる韓国ユース代表。
例え練習試合でも一泡吹かせることが出来れば、それなりの自信になる。
自信――それが福岡清明に欠けている一番大きなものだった。
チームの誰もがどこかでもっている不安。
自分達は最後まで勝ち抜けない、タイトルには縁がない。
誰もが試合の度に不安を抱えていた。
たった一人の一年生を除いて。
織恵は手を額にあてるようにして日を遮る。そしてピッチの上に並んだ人影を凝視する。
「あれ?」
赤いユニフォームを着た一際長身の男。遠くからでもふてぶてしい顔をしているのが分かる。
「なんでアイツが韓国のユニフォームを着てるの?」
ついつい疑問が口に出た。
ひょっとして韓国人だったのか? いやそれはないはずだ。
「あー、なんかフォワードが足りなくて貸し出されたみたいだよ」
背後から声をかけられ、織恵は振り向く。
そこには小柄な小学生くらいの男の子が立っていた。
半ズボンのポケットに両手をつっこみ、野球帽を逆向きにかぶっている。太い眉の下にある双眸が、にこりと織恵に微笑みかけた。
「大ちゃんの知り合い?」
「え? いや――」
「いいなー。こんな可愛い知り合いがいるなんて。しかも試合にも出られるしー。ぼくも出たいなぁ」
無邪気に話す男の子。織恵は彼の顔に見覚えがあった。だがどうしても思い出せない。
「ああ、どうもぼくは大ちゃんの親友で。圭吾って言います。よかったら後でメアド交換しましょうね」
生意気な小学生だと、織恵は眉を顰めた。
圭吾――聞き覚えがあるようなないような。
「大ちゃんが心配?」
圭吾は、にやにやとのぞき込むように織恵を見る。
「別に!」
織恵は口をとがらせてそっぽを向いた。
「大丈夫。勝つよ」
それはあまりにも自信に満ちた答えだった。
確かに韓国ユース代表は史上最強と呼ばれるチームだ。だからといって福岡清明だって高校サッカー界では名門で通るサッカー部である。それに韓国ユース代表の方はレギュラーが数人抜けていると聞いた。来日する人数がコロコロ変わり、施設の方でも結構バタバタさせられたのだ。
そこまで断言するだけの差があるとは思えない。ことサッカーに置いては、かなりの実力差があっても番狂わせが起きるものなのだ。
「何も起こらないよ。韓国のチームが勝つ」
圭吾は楽観してるようでも、ふざけているようでもない。真剣なまなざしを一人の選手に向けていた。
「十河大作って、そんなにすごい選手なの?」
「大ちゃん? 大ちゃんは才能はあるよ。うん。でもね、この試合に勝つのは大ちゃんがいるからじゃない」
織恵は圭吾の視線の先を追う。
ピッチへと散らばっていく選手達。韓国チームの中盤の底に位置取った一人の選手。背番号20をつけた長身の男。背筋を伸ばし、ピッチそのものを飲み込んでしまうような存在感を放っている。
「勝つよ。ウォン・ウェイミンがいるからね」
圭吾の言葉が終わると同時に、キックオフの笛が吹かれる。
ピーッ。甲高い音が響いて、カラスの群れがいっせいに曇天へと飛び立った。
7
「――重い」
福岡清明のキャプテン、丸木王児は思わず口に出していた。一年の図師が「え?」という視線を向けてくる。
最初はピッチがぬかるんでいるせいかと思った。
だが違った。
それは圧力だった。
相手から感じる圧力。
何も出来ない。
押しつぶされないように、堪えるだけでせいいっぱいだった。
キーパーの古井が高く飛び上がり、コーナーから放たれたボールを掴み、抱きかかえるように着地する。
古井の顔はあきらかに青ざめていた。
無理もない。試合開始から十分が経過して、福岡清明はずっと自陣に釘付けにされている。
試合のほとんどが福岡清明のゴール前で行われているのだ。
丸木は手を高くあげ、ボールを要求する。
古井が希望を託すようにボールを投げる。ボールは綺麗な弧を描いて古井の足下に収まった。
中学の頃は天才ドリブラーとしてもてはやされた。一対一ではほとんど負けたことはなかった。高校に入って、相手のレベルも上がり、多少は苦戦する場面も増えたが、それでもドリブルには絶対的な自信があった。
福岡清明最大の武器は、右サイドを駆け上がる丸木のドリブルだ。
体の重さを振り払うように得意のドリブルを始める。
ワンタッチ。
ボールを少し前に動かす。
そして一気に右サイドを駆け上がり、ハーフウェイラインを越える。
ズシリ。
振り払ったはずの重さがのしかかる。
目の前に立ちはだかったウォン・ウェイミン。
ダークグレーの双眸が丸木をとらえた。
すっとウェイミンの長い足がのばされる。
一気に間合いをつめてボールを奪われそうになる。
だが丸木も素早い動きで、伸ばされた足の外側にボールを運ぼうとする。
だがウェイミンの足は完全に伸びる前に大地に突き刺さり、その足を軸にして方向を変えた逆の足が踏み出される。
丸木とボールの間にウェイミンの体が入り、そのまま軽々とボールを奪ってみせた。
一歩目の伸ばされた足はフェイクだった。
丸木を自分の思ったところにドリブルさせるよう。
丸木は完全に調子を狂わされていた。
いつも仕掛けるのは自分だった。
様々なフェイントを駆使し、相手の裏をかいて突破していく。
主導権を持っていたのは、いつも自分だった。
だがウェイミンは違う。
フェイントを駆使しながら仕掛けてくる。
こんなディフェンスは初めてだった。
失敗すれば完全に抜かれるわけである。ウェイミンの背後には広大なスペースが広がっている。仕掛けを失敗すれば、カウンターから即失点に繋がる状況だ。
自分がドリブルで仕掛ける時とはわけが違う。背負っているリスクが違う。
それでもなお、仕掛けられる自信。
ウェイミンにはそれがあるのだ。
丸木はひしひしと感じていた。
自分のありとあらゆる動き、癖、リズム、思考。すべてがウェイミンに読まれていると。自分がウェイミンの思い通りに扱われていると。だからこそ自信をもってディフェンスの方から仕掛けられるのだ。丸木の動きを完全に読んでいるからこそ。
まるで深い深い闇に包まれているかのような感じだった。
もがいても、もがいても、その手は空を切るだけだ。
来る!
大作は呼吸を止めて全身の力を抜く。あらゆる方向に咄嗟に動き出せるように。
ウェイミンの足から放たれたボール。
まるで弾丸のような速度で福岡清明のディフェンスの間を突き抜けてくる。
一度目はまったく反応できなかった。二度目は触るのがやっとだった。
まるでシュートのようなパススピード。
だが韓国の選手たちは皆当たり前のようにそのスピードでパスを交換している。
大作は足を伸ばす。
パスをするたびに、どんどんとスピードが増しているようにも思える。まるで自分を試しているかのようだった。
(舐めるなっ!)
大作にとって試されるなど我慢ならない事だった。
足の内側で弾丸のようなボールを受ける。
やさしく、包み込むように。はじき飛ばそうとする威力を殺していく。
ボールが足下に収まった。
大作はすぐさま反転し、驚きを露わにする。
丁度ハーフウェイライン中央から見たその光景――ゴールへの道筋が無限に広がっているかのようだった。
すでに韓国の選手たちは走り出していた。
福岡清明の選手たちはまったくついて行けていない。
スピードが違う。
単純な足の速さではなく、思考能力、判断力のスピード。
福岡清明の選手が迷っている間に、韓国の選手は次のプレーを判断し走り出してしまっている。
プレーが後手後手にまわっている。
これならば自陣に縛り付けられてしまうのも仕方がないだろう。
大作は左サイドでフリーになっている選手にパスを通す。丸木の上がった裏のスペースをつく形だ。
そしてそのまま自分はゴール前へと上がる。
ディフェンスリーダーの神無場が大作のマークにつこうとする。だが彼の前を上がってきたウェイミンが手を挙げて、クロスするように駆けていく。
神無場は慌ててウェイミンのマークにつき、大作がゴール前でフリーになった。
その大作めがけて左サイドの選手がセンタリングをあげてくる。
見事に統制された動きだ。
ポジションを固定せずに、バラバラに動いているように見えて、すべてが計算された動きだ。
そしてその中心には、いつもウェイミンがいた。
背徳の貴公子――ウォン・ウェイミン。自分のチームだけでなく、相手のチームですら操ってしまっている。
全ての選手のプレースタイル、癖、弱点を把握し、そこをついて見事にコントロールする。
なるほど日本ユース代表が、このチームに七点もとられて負けたわけがよくわかった。
追いつきたい。
追い越したい。
このレベルでプレーする選手たちに、肩をならべ、いずれは薙ぎ倒してやりたい。
鋭いセンタリングが大作の足下でバウンドする。そして跳ね上がったボールめがけて、大作の足が振られる。
スリーバックの右にいた神無場が抜けて、残ったディフェンス二人がシュートコースをふさごうと詰めてくる。
そしてわずかに空いたシュートコースをキーパーの古井がカバーする。
三年間、松根監督によって徹底的に磨かれたディフェンス。
固いディフェンスから、丸木のドリブル突破によるカウンター。もし決定力をもったフォワードがいれば、全国のタイトルをとることも出来ただろうと言われている。
そのフォワードはここにいる。
大作は嗤った。
ゴール前に浮かび上がった一瞬の得点機。それを確実にものにするハンター。
するどい牙を持った獣。
俺がお前たちの求めていたフォワードだ。
くれてやろう。
この甘美なる一撃を。
一瞬の空白。
古井はとまどいをみせる。大作の足が振り抜かれない。
シュートするフリをして、ボールをスルーし右サイドにいる選手に打たせようというのか?
確かにこのまま打ってもシュートコースはふさがれている。
右サイド――
古井の視線が右にそれた瞬間、大作の足が振り抜かれた。
通り過ぎようとしていたボールを、つま先で押し出すように。
手を少し動かせば取れる位置だった。
しかしタイミングをズラされた古井は、まったく何の反応も出来ないまま、ボールを見送るしかなかった。
ボールがネットに突き刺さる。
静寂。
耐えに耐えた十分間。
ギリギリのところで守っていることで保たれていた福岡清明の緊張感。
何かがブツリきれる音がした。
大作は高笑いしたい気分だった。
実に爽快だ。
完全なる破壊。
絶望に打ちひしがれる選手たちを見下ろす自分。
破壊衝動が満たされた瞬間だ。
もっとだ。
もっと壊れてくれないか?
自分達の弱さを叩きつけられ、二度とサッカーがしたくなるくらい。サッカーが怖くなるくらい。
絶望を味あわせてやろう。
織恵はぶるっと身震いした。
何だろうこの寒気は?
ゴールが決まったというのに――華やかな瞬間だというのに――この凍りつくような空気は。
これがサッカー?
あまりにもかけ離れている。
自分の知るサッカーと。
自分のしてきたサッカーと。
部活での日々。ふざけて練習する先輩を尻目に、厳しい世界に憧れた。
身をジリジリと焦がすような真剣勝負に憧れた。
体がバラバラになるくらいのぶつかり合いに憧れた。
だがいま目の前で行われている試合はそんな理想すらも凌駕していた。
真剣な勝負なんて次元のものではない。
もっともっと濃密な何かがそこにある。
ウェイミンのアーリークロスから大作のヘディングが決まり、得点差が二点に広がった。
「大体、福岡清明の布陣が間違っているのよ! スリーバックだなんて! 韓国ユースが4−3−3と両サイドにサイドバックとウィンガーを二枚ずつ配置しているのに対して、ウィングバックが一枚じゃどうしてもサイドで数的不利になるもの!」
まくし立てる織恵に圭吾が「くわしいねー」と感心した視線を向けてくる。
「違うな。お嬢ちゃん」
背後から声がして、織恵は振り返る。
木陰のベンチに一人の老人が座っていた。
ストライプの半袖シャツにパナマ帽をかぶり、皺だらけの顔に微笑みを浮かべていた。右手には杖が握られている。
「サッカーはシステムでやるもんじゃあないんだよ」
笑みを浮かべたまま、しわがれた声を出す。
「げっ! じいちゃん!」
圭吾が顔をひきつらせる。
「何? 知り合い?」
「知り合いっていうか……監督。ユースの」
「ユース?」
「うん。U18日本代表監督――小洞道夫監督」
「あんだー……えいてぃー……」
織恵は呆然としたまま、再び老人をみる。
どこからどうみても公園に孫を遊ばせに来た老人にしか見えない。
「壁凪。あんまり年寄りに心配かけんでくれよ。もう少しでマスコミが大騒ぎするところだったんだぞ」
小洞は眉間に皺を寄せつつも、口元はほころんだままだった。
「いや、もうこういう山とか来るとぼくの冒険心が疼いて疼いて」
「だからといって代表の合宿で選ばれとるってことを忘れちゃあいかんな」
「はーい。ごめんなさい」
壁凪。
やっと顔と名前が一致した。
壁凪圭吾――15歳にして飛び級でU18に選ばれた天才フォワード。
サッカー雑誌の記事で読んだんだ。その時載っていた写真をみて、あまりのあどけなさに驚いた。
笛の音が響く。
ピッチを観ると審判がセンターサークルを指さしていた。
福岡清明のゴール前に人差し指を天に向けた大作がいる。
どうやらハットトリックを達成したらしい。ひとつ目のゴールから五分しか立っていない。ギリギリのところで持っていた福岡清明のディフェンスは完全に崩壊していた。
「怖いか? お嬢ちゃん」
小洞の言葉に、織恵は驚きを露わにする。
怖い。どうしてわかったのだろう?
「まるで狼だからな」
小洞は視線をピッチに向ける。
意気消沈した福岡清明の選手たち。それでもなお全力で挑みかかる韓国ユースの選手たち。
まるで狩りだ。
狼の群れが兎を狩るかのようだ。
「福岡清明の選手は真剣にサッカーに打ち込んできたんだろうな。それはよくわかる。いいチームだ。だがもうこれはがんばっているとか、一生懸命とかいうレベルじゃあない。韓国の選手達は生き残りをかけて、己の全てをかけて試合に挑んでいる。まるでもうあとが無いかのように」
がんばろう。一生懸命やろう。
それは織恵も常々考えてきたことだ。
だがそれは真剣と言っても、生きるためとは違う。
あくまで部活というカテゴリーの話。あくまでスポーツというカテゴリーの話。
自分の全てを捨ててでも、サッカーに賭けようと言う気持ちではない。
獣が生きるために狩りをする真剣さとは異質のものだ。
「しかし面白いな、アイツ」
小洞が目を細めて、ピッチを指さす。
「なんて言うんだアイツ」
「大ちゃん? 十河大作――福岡清明の一年だよ」
「一年? あれでか?」
小洞は初めて驚きをみせる。それから真剣な瞳を大作に向ける。
「奴もまた狼だな。しかもかなり獰猛な」
小洞は嬉しそうに笑う。
「壁凪が家出したのもサッカーの神様の導きだったのかもなぁ」
「へ?」
圭吾はきょとんとした視線を向ける。
高らかな笛が、1セット目の終了を告げる。
織恵は引き上げてくる群衆の中に大作を見つけた。
笑っていた。
大作は笑っていた。
誰と話すでもなく、ただ一人、何かに浸るように笑っていた。
黒い炎が揺らいでいるかのようだ。
怖い。
織恵は素直に認めた。
十河大作に心から恐怖している。
獰猛な獣。
たしかにその通りだと思った。
8
松根勝夫は呷るように、おちょこに入った雷海を流し込む。
喉の奥から清涼感が昇り、疲れを吹き飛ばすようだ。
ふーっとついたため息が、こぢんまりとした居酒屋に響き渡る。
「いい飲みっぷりじゃねえか」
カウンターの隣席に座る小洞は両目をへの字にして、柚コショウにつけた餃子を頬張る。
「いやはや結局何もさせてもらえませんでしたよ」
松根は顔をほころばせた。苦笑しているわけではない。心から笑っているのだ。あまりに敵があっぱれで、悔しがる気持ちすら沸いてこなかった。
「うちの奴らにはいい薬になったんじゃないですかね」
「昔、日本代表にやられた時のお前みたいにか?」
今度はさすがに苦笑した松根だった。
昔――長崎のチームで無敵を誇って天狗になっていた自分達の鼻を、見事にへし折ってくれた代表チーム。その時の代表監督がこうして目の前にいるのだ。
その後、松根も代表に選ばれ、小洞の指導を受けた。まさに鬼のような存在だった。
そして歳月を隔て、今では自分も監督になって横に並んで酒を酌み交わしている。
「しかし小洞監督がユースの監督に選ばれたと聞いた時は驚かされましたよ」
「今更こんな年寄りをもってきて、時代に逆行してるってか?」
「いやそんなつもりは――」
「そのとおりだよ。場つなぎみたいなもんだ。協会の連中は若くて優秀な監督を抜擢したいらしくてな、その交渉中だけつないでくれる監督としてこんな年寄りがひっぱりだされたわけだ」
かかか、と小洞は渇いた笑い声をあげる。
「まあどうせ何しようが秋には解任される身だ。いろいろ面白いことはさせてもらうよ」
「それがあの壁凪圭吾の抜擢ですか?」
松根の言葉に小洞の細い目が見開かれる。
「あの子はホントに面白い子だ。わたしが見てきた中でもとびきりの才能をもっとるね。サッカーの神様に愛されとる」
「一度見てみたいものですね」
「そのうち目にすることになるだろうよ。お前の高校が勝ち続ければ、あの子がいつか目の前に現れるさ。高い壁としてな」
松根は意地悪げに笑う小洞に「それは勘弁ですね」と苦笑した。
「じつはな。もう一人代表に呼びたい新人がおるんだ」
「それでぼくをここへ呼んだわけですか」
小洞の言いたいことは大体分かっていた。だから松根はため息をつく。それが良いことなのか、悪いことなのか。
「実に面白い子だ」
「正直手に余ってます」
松根は苦笑いを浮かべたまま目を閉じる。
「手に余る。結構じゃないか。最近の子はちいさくまとまりすぎてて味気ないくらいだからな」
松根は目を開ける。そしてカウンターに額がつきそうなくらい、深々と頭をたれた。
「大作をよろしくお願いします」
「うん。悪いようにはせん」
松根が顔をあげると、そこには小洞の丸っこくて皺だらけの笑顔があった。
歳月というのは人を変えるものだ。鬼のような形相で、いつも選手を睨むようにしていた男が、こんな風な穏やかな表情を浮かべるようになるとは。
「だがちょっとばかし、あの子は辛い目をみるかもしれんよ」
「ええ、確かに韓国ユースと対峙すれば、自分の未熟さを痛感するでしょう。それもいい薬です」
「いや、そうじゃあない……」
小洞はかぶりを振る。
「あの子に苦しい思いをさせるのは韓国の選手じゃあない。もっと凶暴な獣だ」
「凶暴な獣?」
「どん欲で獰猛な獣だよ」
小洞は表情をひきしめ、雷海を一気に呷った。
目に鋭さが戻っていた。
鬼監督と呼ばれていた頃の目だ。
松根は、冷水をかけられたように身が引き締まるのを感じた。
ピンク色の花柄カーテン。
色あせたソファ。
壁に掛けられた海岸の絵。
映りの悪いテレビ。
テーブルに飾られた一輪の花。
古めかしいアパートの一室にあった全てのもの。
その全てが、今では虚無という闇の中。
真っ黒な獣。
全てを飲み込み、塵一つ残さない化け物。
その禍々しい姿に、人は時に魅せられもする。
ウェイミンは獣と対峙する。
その獣を産みだしたのは自分自身だ。
獣のひと睨みが、ウェイミンの体温を奪う。
真夏の夜に、ウェイミンは寒気を感じた。
「なーっ! 俺の話。聞いてる?」
背後から退屈そうな声がひびいた。
声の主は、真っ赤に染められたツンツン頭を、つまんだりねじったりして退屈を紛らわせている。
やがてそれにも飽き、つり目の鋭い視線をウェイミンに向ける。
「こんなところに寄り道するならメイドカフェ行きたかったんだけど。面白れーんだぜ。日本の女の子がフリフリなドレス着て接客してくれるんだ。何言ってるかよくわかんねーけどさ。オムライスとかわざわざ食べさせてくれるんだ。あれ、マンチェスターでやったら流行るかな? サイドビジネスで引退後の生活のことも考え解いた方が賢明だよなー」
「ちょっと黙っててくれないか。ハギュン」
ハギュンと呼ばれた少年は、ため息をついてウェイミンの横に立つ。
それからウェイミンの見ている空間に目をこらす。
そこは何もない更地だった。
新大久保の駅から、さほど遠くない場所にある住宅街。そこに存在する何の変哲もない更地。
ハギュンは小柄な体で飛び込むようにして更地に踏み入る。
それから軽快な足取りで更地の中程まで到達し、何もないことを確認すると、くるっと反転してウェイミンと向き合う。
「何なんだ? ここ?」
ウェイミンの凍るような視線が、更地の中央で両手を広げたハギュンを捉える。
口元が微かにほころんでいた。
笑った?
ハギュンは眉間に皺を寄せる。
アカデミー時代から表情をみせないことで有名だった。そして未来が見えているかのような洞察力。ウェイミンは、よくアカデミーの仲間内でサッカーロボットと揶揄されていた。
そんなウェイミンが笑みをみせていることに、ハギュンは驚きを隠せなかった。
「ちょうどそのあたりだ」
ウェイミンが言葉を発した時には、笑みは完全に消えていた。まるでそれが幻か何かだったように。
「昔その場所に小さな部屋があり、わたしの母が住んでいた」
夏だというのに底冷えするような寒さを感じずにはいられない。
ウェイミンは自分自身がどんどんと凍りついていくかのように感じていた。
「母は単身訪ねてきてたわたしを実によく愛してくれた。それはもう、鳥かごに閉じこめるかのように」
孤独だった母。
孤独を埋めるように働き、男を作ってはその財産を全て貢ぎ、やがて貢ぐ金が底をつくと捨てられるという人生を繰り返してきた。
それだけに華やかだった学生時代の思い出にたいする執着はすさまじかった。
留学先での父との出会い。燃え上がった恋。
母は捨てられてからも、ずっと父との思い出を引きずってきた。
そしてその代償を息子であるウェイミンに払わせようとした。
自分の孤独を埋めてくれる相手として。行き場を失った愛情を受け止めてくれる相手として。
だから燃やした。
「ある日、わたしはアパートに火をつけた」
風が凪いだ。沈黙が重くなる。
雲の流れが速い。遠くで雷鳴が鳴り響いた気がした。
「その日からわたしは母と共に生きる宿命を背負った」
酷い火傷を負い、搬送された病院で母は言った。
コートを着た不審な人物が火をつけたと。
近所で起きていた放火事件。その犯人が追いつめられ灯油をかぶって焼身自殺し、アパートの火事もその人物の犯行とされた。
真相を知るのは、火をつけた自分と、母だけだ。
母は何事もなかったかのようにウェイミンに接する。
家に帰るたび、ウェイミンを抱きしめる。
火傷の痕が残った顔に微笑みを浮かべ、彼女は言う。
プロの選手になったウェイミンは、わたしの誇りだと。
ハギュンは唖然としたまま、ウェイミンを見ている。
ウェイミンは無表情のまま、踵をかえす。
「そろそろ行こう。八時前の新幹線に乗ることになっている」
ちょっとした寄り道のつもりが、思わず長居することになってしまった。
「これで試合に負けたら、またマスコミに叩かれるだろうな」
ウェイミンの言葉を聞き、ハギュンは鼻で笑う。
「ハッ! ぜんぜん負ける気がしねー。あのへっぽこ日本ユース相手だろ? 正直、観光意外に興味はねーよ」
「油断していると足下をすくわれるぞ」
「試合に勝つ事なんて、人生で勝つことに比べたら随分と容易いもんさ」
ハギュンはウェイミンに笑みを向ける。
ウェイミンは、ふん、と鼻をならし、そっぽを向いたまま歩き出す。
勝ち続けなさい。ウェイミン。
そしてわたしたちは幸せになるの。
背後で黒い獣が囁いた気がした。
だがウェイミンは振り向くことはなかった。
差し伸べられた手を握る。大きな手だった。すごく固い。そして強く握りしめてくる。
こんな風に誰かの手を握るのはどれくらいぶりだろう。体をぶつけ合うことはあっても、他人の手を握ることなんてなかった。
なんだか気恥ずかしくて、大作は顔をひきつらせる。手を握った人物は、その大作の顔をのぞき込むようにして笑みを浮かべる。
「デカいな。何センチだ?」
「191」
ここに来る前に受けた身体検査で、また1センチ増えていた。まだまだ成長期らしい。
男は厚めのまぶたを見開き、ハハ、と渇いた笑いを漏らす。ソフトモヒカンに大きな口元。どことなく悪ガキなイメージ。
「キャプテンの瀬津久鉄雄だ。テツって呼んでくれていい。よろしくな! 新入り」
鉄雄は、バンッと大作の二の腕を叩く。
瀬津久鉄雄。グランパスユースが産みだした最高傑作といわれる男。攻撃のセンスに長けた上、守備もそつなくこなす。両足を上手く使うことが出来、中盤なら大体どのポジションでもこなせる。
ユース代表ではディフェンシブハーフを務めている。
「さあ入れよ」
瀬津久に連れられて合宿所に足を踏み入れる。
「センターフォワードやってた有栖川が右足の小指を骨折しちまってさ。それから洞木とか入江がフォワードやってんだけどさ。どっちも専門職じゃねーし。慌てて下のカテゴリーから壁凪を呼んだんだけど……ほら壁凪じゃ、エースの日地屋さんとプレースタイルが重なっちゃうんだよな。お前みたいなポストプレーヤーが不在なんだよ」
「はあ」
いろいろな名前があがったが、大作には洞木ぐらいしかわからなかった。たしかトリニータユースの右サイドハーフで、プリンスリーグで対戦した時に福岡清明の左サイドを高速ドリブルでズタズタに切り裂いていた。
廊下を少し歩くと、少し先の広間から笑い声が聞こえてくる。どうやらラウンジかなにかで、皆でテレビを観ているようだった。
大作がそのラウンジに足を踏み入れた瞬間。
目の前を何かが猛スピードでよぎった。
カツッ!
その何かが壁に突き刺さる。
ダーツだ。そして壁には雑誌か何かの切り抜きらしき写真が貼られていた。赤いユニフォームに赤いツンツン頭。韓国代表の選手らしき切り抜き写真はダーツの痕で穴だらけになっている。
「危ねーぞ」
壁の向かい側から声がかかる。そこにはソファが置かれていて、ダーツを片手にした男がどかりと座り込んでいた。
頬のこけた小麦肌の男だった。
大作がその男に向かって詰め寄ろうとする。しかしそれを遮るように瀬津久が大作の前に出る。
「ジュン! 危ないのは、お前だ! 合宿所でダーツはやるなって言っただろ!」
「ハン!」
ジュンと呼ばれた男はそっぽを向く。すると瀬津久が勢いよく飛び出し、男の胸ぐらを掴み、ソファから立ち上がらせた。
ひょろっとした手足の長い男だ。身長は大作ほどではないものの180は越えているだろう。
「なに?! 今の返事!」
瀬津久が見上げるようにして睨む。男は眉間に皺を寄せながらも、瀬津久の剣幕に押され一歩後退する。
「このあいだも同じ事で起こったよね! わかってんの? 言うこと聞けねーなら出てけよ! 信頼でねー奴にディフェンスラインまかせてなんておけないからさっ!」
「お前にそんな権限あるのかよ」
「俺のやり方が気に入らねーんだったら監督に言ってキャプテン変えてもらえよ! そうじゃなきゃ従え! また奴らに恥かかされてーのかよ? 今度はホームでさぁ!」
男の眉間に皺がさらに深くなる。
奴ら――おそらく韓国ユース代表のことだ。瀬津久も、この男も0−7での大敗を心のどこかで引きずっているのだろう。
大邱の悪夢と呼ばれた戦い。この世代は昔から一度として韓国に勝てていない。そしてその差は広がるばかりだ。
「おーっ! 大ちゃんっ!」
ラウンジを挟んだ向かい側のドアが開き、圭吾がパタパタと大作に駆け寄ってくる。
「遅いからまた迷子になってんじゃないか心配したよ」
無邪気な笑顔を向けてくる。
「なるかよ。あれは、たまたまだよ」
「やっと一緒にプレーできるね! 楽しみだなぁ」
圭吾の登場で一気に場が和んだ。緊迫した面持ちで成り行きを見守っていた連中も、笑顔をつくり大作に近づいてくる。
「ポルトファーレの羅門征一だ。よろしくな」
長髪にくりくりの瞳をした、どこか犬を思わせる顔立ちの男だ。大作は「どうも」と頭をさげる。
「同じくポルトファーレの流辺剛。期待してるぜ。飛び級生。監督がこの時期に呼んだってことは使えるってことなんだろうしな」
こちらは逆に厳つい感じの顔付きだった。なんとなく格闘技をやっているような体つきだ。
小麦肌の男が「ケッ」と短く息を吐き出し、瀬津久の腕を振りほどく。
「ジュン!」
去っていこうとする背中に瀬津久の鋭い声が突き刺さる。
「わかってるよ! キャプテン! あんたの言うとおりにすれば勝てるんだろ? 今度はウォン・ウェイミンにいいようにやられないでくれよ」
その様子を見守っていた羅門が肩をすくめる。そして大作に耳打ちするように告げる。
「あいつはロサーラユースの樋池純司。ほら練習試合で日本代表の安里さんを怪我させて有名になった」
鹿児島ロサーラ。昨年J1にあがったものの、低迷し最下位に甘んじているチームだ。チーム名は桜をイメージしてスペイン語の桜色――『ロサ』と翼を意味する『アーラ』を重ね合わせた造語というのを何かの雑誌で読んだ。
樋池は壁の向かい側に行くとダーツごと切り抜きを引きはがす。
それから切り抜きに映し出された人物をにらみつける。
ビリリッ! 勢いよく破られる切り抜き。
「殺す! 必ず殺す! 殺してやるっ!」
ビリッ! ビリッ! どんどんと破られ切り抜きは塵屑となっていく。
流辺がため息をつき、大作に困ったような苦笑いを向ける。
「あの写真のチャン・ハギュン。あいつにこの前ハットトリック決められてさ。しかもわざわざ片言の日本語で言われたんだよ『練習にもならない。日本帰りな、お嬢ちゃん』ってさ。それでぶち切れて殴りかかろうとして一発レッド。それ以来、ちょっとおかしくなってんだ」
チャン・ハギュン。韓国ユースの絶対的エース。大作が代役をつとめることになった選手。
一度顔を拝んでおきたいと思ったが、もはやそれも確認できないほど散り散りになってしまった。
樋池は、その塵屑をスリッパの底で思いっきり踏みにじる。
人をここまで追いつめる選手。
闇夜の爆撃機――チャン・ハギュン。一体どれほどのものなのか。
「大丈夫だよ! 今回はぼくがいるし」
圭吾がにこやかに言い放つ。羅門も笑い、圭吾の頭をポンポンと叩く。
「そうだな。圭吾がいるもんな。でも、その前にまず決定力を磨かないとな。お前は上手いんだけどシュートがなぁ……こないだも何度ポストに当てた事やら」
「えーっ、あれはポストを狙ってたんだよ! どんな局面でも狙ったところに打てるよーにって」
「はいはい」
羅門はふくれ面になる圭吾をまったく相手にせず、再びソファに座り、テレビを観だした。樋池もいつの間にかいなくなっていた。
「十河。お前の部屋に案内してやる。ついてこい」
さっきまでの剣幕が嘘のように、瀬津久は穏やかな表情を大作に向けていた。
「ちぇーっ。ホントなのになぁ。大ちゃんは信じるよね?」
圭吾の問いに大作は微かに笑うだけだった。
「まあ次の韓国戦で証明すればいいだけのことか」
圭吾がは開き直り、さっきまで樋池が座っていたソファに座る。そして脇にあった古いサッカー雑誌を読み始めた。おそらくあのハギュンの写真を切り抜いた雑誌だろう。
「十河!」
瀬津久が大きな声で大作呼ぶ。細い眉が少しつり上がっていた。
さっきの行動といい、どうやらあまり気が長い方ではないようだ。
大作は悪びれた様子もなく、ゆっくりと瀬津久の跡を追う。瀬津久も気にするでもなく、再び歩を進める。
そうだ。試合で証明してやればいい。
この一つ上のカテゴリーでも十分に通用すること。トップに立てること。そして史上最強ともいわれる韓国黄金世代にすら通用すること。
自分の力を証明できるチャンスが来たのだ。
チャンスは一度しか訪れない。
一瞬の輝き。
それをものにする。
それがストライカーだ。
ここで決めてみせるのがストライカーというものだ。
ピンクのアイシャドーに合わせて、薄めに眉を描く。リップを唇全体に塗って、軽くティッシュで拭き取り、グロスを重ねる。
久しぶりのメイク。上手くできているか。
ふと、鏡に映った真剣なまなざしを見て、織恵は我に返る。
チークの上からでも頬が紅潮したのが分かった。
何をやっているんだろう?
別に誰にみせるでもないのに。
テキトーでいいんだ。
それでも鏡台の前に立ち、最後に自分の格好を確認する。
白のタンクトップにデニムのミニスカート。胸元には母からもらったアニエスベーのネックレス。
後ろ髪を両サイドに持ってきてクルッと巻き込み、おだんごを作って毛先が飛び出るようにしている。少し気になり、前髪を分け、飾りピンをつけてみる。
何度もテキトーでいいと思いながら、なかなか終わらない。
いい加減にしよう。
織恵は勉強机の上に置かれたメッセンジャーバックを手に取る。
制汗剤に日焼け止め、フェイスタオル、手帳、ケータイ、それと肝心のチケット。
気がつくと予定していた時間をオーバーしていた。
織恵は慌てて家を出る。
玄関先には珍しく母がいた。いつもなら施設に詰めている頃だが、韓国ユース代表が出ていって暇にでもなったのだろうか。
「あら、かわいい。どうしたの? スカートなんか履いちゃって。デート?」
母はニヤニヤと織恵の姿を観察する。
「違う! サッカー! 観に行くの!」
「あら? サッカー観る方は興味なかったんじゃないの?」
「たまにはね――時間無いから、もう行く」
駆け出す織恵の背中に「いってらっしゃい」という母の声がかかる。
確かに母の言うとおりだ。
サッカーは観るよりやるほうが楽しい。
観ているだけなんて退屈だ。
それでも観てみようと思った。
十河大作やウォン・ウェイミンのプレーを。
自分のいずれはプロになると思っていた。真剣にやっていればなれるものだと。毎日の努力を欠かさなければなれるものだと。
でもプロで戦っていくにはそれだけでは足りない。
彼らのプレーをみて、織恵は痛感した。
真剣を越えた先にあるもの。彼らはそれをもっている。
織恵に足りないもの。
それはなんなのか。
確かめたい。
彼らの戦いをみればそれが分かるような気がした。
はるばる広島まで行ってユース代表なんか観なくても、地元で大分トリニータとかアビスパ福岡とかプロの試合をみればいいんじゃない?
誘った友達にはあっさりと断られた。
たしかにそうかもしれない。だが織恵は彼のプレーが観たかった。
同い年の少年。
それにもかかわらず『怖い』とまで思わされたプレー。
なにが彼をそうまでさせるのか。
それが知りたかった。
広島の地で、史上最強と謳われた韓国ユース代表を相手に、彼がどんなプレーをしてみせるのか。
初めてだった。
観るだけのサッカーに、こんなにドキドキと胸を高鳴らせているのは。
キックオフのホイッスルが鳴った時に、気絶してしまうんじゃないだろうか。
自分の考えに、思わず笑みがこぼれた。
バス停にいた小学生が訝しげな視線を向けてくる。
織恵は誤魔化すようにそっぽを向いて、一つ咳払いをした。
ちょうど視線の先の曲がり角からバスが姿を現した。
9
スタンドに降り注ぐ真夏の光。体が焼かれていくような感覚。
織恵はスタジアムの入り口で、紙コップに移し替えてもらったポカリスウェットを口に含む。
「あー、わかってるよ! ヤケになんかなってねーよ!」
背後から誰かが大声を上げて近づいてくる。そして織恵の一席離れた隣の席にどかりと腰掛けた。
四十代前半くらいの男だ。だらしなく伸ばされた髪と髭。色あせたTシャツ。皺だらけのチノパン。どうも定職についている感じではない。
右手には携帯電話。左手には売店で買ったビールが握られている。
皺が刻まれた精悍な顔立ちも心なしか紅潮している。
「だから! 今日の勝負に勝てば、借金は全部チャラになんだよ!」
男が声を荒げると同時に、アルコールの香りが織恵のところまで漂ってきた。
織恵は顔を背けて酒臭さから逃れようとする。
席を移動しようにも、織恵が買ったのは指定席だ。自由席に移動するという手もあるが、差額分がもったいない気がする。
織恵はカバンを持って立ち上がる。
どうせユースの試合だし、満席にはならないだろう。試合直前に戻ってきて空いてる席に座るとしよう。
「勝つさ! 心配するなよ! 勝ったらお前の欲しがってたナントカっていう熱帯魚買ってやるよ……ああ……そう韓国じゃボロ負けしてたな。大丈夫。今度は大作がいるから何とかしてくれるさ。アイツに賭けてみたいんだ」
階段を昇りかけて織恵は振り返る。
大作?
十河大作のことだろうか? 他に同じ名前の選手などいなかったはずだ。
大作に賭ける?
この男は大作の知り合いだろうか?
織恵の視線に気づいて男が、首を巡らせて織恵に視線を向ける。
目が合う。
「お嬢ちゃん。パンツ見えてるよ」
にやりと男が笑う。
織恵は慌ててスカートの後ろをカバンで押さえ、男をひと睨みして階段を駆け上がる。
最低な奴だ。
こうなったら自由席の方がマシかもしれない。
スタンドの出口に差し掛かった時に、背後から歓声が鳴り響いた。
アウェー側ゴール裏から鳴らされる太鼓の音と「大韓民国」の大合唱。
次々と早口に紹介されていく韓国の選手達。
そして次に日本の選手の番になり、さっきまでとはうってかわって顔写真入りで一人ずつゆっくりと紹介されていく。
ゴールキーパー、針出透。
ディフェンダー、流辺剛、樋池純司、小野寺光一、羅門征一。
ミッドフィルダー、佐木敦、瀬津久鉄雄、入江相太、洞木三四郎。
フォワード、日地屋竜人、十河大作。
スタメンだ。
日本サポーターからも大作の名前が挙がったところでざわめきが聞こえてきた。
無理もない。急遽呼ばれた上に、今までほとんど名前も挙がったことのない選手だ。
まだそういう立場だ。
誰も知らない。
ただの高校一年生。
そして試合が終わる頃には、きっと誰もが忘れられなくなる。
そんな気がする。
売店の行列に並んでフライドポテトとオレンジジュースを買う。
なんだかそれだけの事で楽しい気分になった。
もしこれが友達と一緒なら、もっと楽しめたかもしれない。
くるりと織恵は身を翻らせる。
ちょうど後ろに立っていた人にぶつかりそうになって慌てて出しかけた足を止める。
なんとかぶつからずに済んだものの、紙コップのジュースが少しこぼれて男の着ていたジャージにかかってしまう。
「すいませんっ」
織恵は慌てて頭を下げる。その頭をぐっと押さえられる。
「へ?」
頭を上げようとするが強い力で押さえられていてかなわない。
「何やってんだ? お前」
くつくつという押し殺した笑い声と共に、頭を押さえていた力が弱まる。
織恵はいきおいよく頭をあげた。声をきいた時点で目の前に立っているのが誰か分かっていた。
190センチを越える長身。短く刈り上げた髪。彫りの深い顔立ち。額と頬に刻まれた傷。ひとつは織恵がつけたものだ。
「なんだ? 今日はまた随分と可愛らしい格好じゃねーか」
織恵は頬を朱に染めながらも目の前に立つ男――十河大作を睨む。
「試合に出る選手がこんな時間にスタジアム内をウロウロしてていいわけ?」
「かまやしねーだろ。まだ一時間以上もあるし。控え室にいても、どいつもこいつもなんか思い詰めた感じで、辛気くさくてこっちの気まで滅入ってくるしな。それに誰も俺が選手だなんて気づかねーよ」
大作は周囲を見渡す。コンコースでタバコをふかす大学生らしき男達。グッズショップに並べられた商品を物色する小学生。誰も大作の方を見てはいない。
「くやしいけど、それが現実さ」
「へー。何? 『キャー! サインくださーい』とか言われたいわけ? 所詮なんだかんだ言って、プロになってちやほやされたいだけなんだ」
「ああ、そうだ」
織恵は少し驚いて大作の顔を見る。てっきり怒って反論してくるものだと思っていた。だが大作はあっさりと肯定した。
「まずは有名になって否が応でも俺の名前を思い出させる。その上でアイツが欲しがってたものを全部手に入れてやる。アイツとはまったく逆の方法でな。そうやってアイツの全てを否定してやるのさ」
織恵はゾクッと背筋をふるわせた。
あの目だ。
練習試合の時にみせた目――獣の瞳。
「アイツ……って?」
「親父さ。俺の親父はJリーグのスター選手だったんだ。今で言うファンタジスタってやつか? 観客を楽しませるプレーヤーだ。くだらない……あんなプレーで世界の頂点に立てると思った哀れな男だよ」
織恵は黙って大作を見ていた。
よくしゃべる。
まるで溜まっていたものを吐き出すかのように。
「笑えるだろう。自分の捨てた子供が、自分が必死で欲しがりながらも得られなかったものを、どんどんと手にしていく様を黙ってみているしかないんだから」
「そして後悔させたいの?」
「あん?」
「自分を捨てたのは間違いだったって。お父さんに」
「後悔……違うな……絶望だ。あいつの全てを否定してやりたいんだ。自分の一生がどれだけ無駄なものだったかと」
大作は拳を握りしめる。
子供の頃、父に手を振り払われた時の感覚。自分の全てを否定された絶望感。それを父にも味あわせてやりたい。
あの男が愛し、あの男を愛した観客を楽しませるサッカー。その全てを破壊してやりたい。
あんなものがあったから母は苦しまなければならなかった。
Jリーグが父という悪魔を作り出した。たいした実力もない男を祭り上げ、傲慢にしてしまった。
「いつかお前も言ってたよな」
ゆらゆらと黒い炎が立ち上る。
織恵はぎゅっと両手の拳を固めた。濃密な憎しみの気配に呼吸すらままならなくなる。
「プロサッカーなんてくだらねぇ」
激しいサッカーに対する憎悪。
復讐のためにプロになろうとする男。
大作は織恵とすれ違うように歩き出す。
ふっ、と織恵は止めていた呼吸を再開させた。
織恵には目もくれず、黒い炎を引きずるように去っていく大作の背中。
織恵は何かいいかけてやめた。
言葉が出てこない。
何か伝えたいことがあるような気がするのに、それがなんなのか自分でも分からない。
ただスタジアムの奥へ消えていく背中を見送るしか出来なかった。
復讐のためのサッカー。
それが答え?
自分の探し求めていた答えなのだろうか?
織恵は座席に座りため息をもらす。
「おいおい。景気が悪いな、嬢ちゃん」
ふっと視線を声のした方に移すと、さっきまで携帯電話を片手にうるさくしていた男がいる。赤ら顔で、完全に酔っぱらっているようだ。
「そんな顔してたんじゃ勝てるもんも勝てなくなっちまうぞ」
「別に戦うのはわたしじゃないですから」
「はーっ、わかってないね。スタジアムの雰囲気ってのも大事なんだよ。満員のスタジアムで大声援を受けた時なんか、スゲー迫力なんだからな」
「よくそんなの分かりますね」
織恵は疑わしい視線を男に向ける。
「ま、こう見えても、元はプロだからな」
勝ち誇ったような笑みを浮かべる男。だがひげ面にだらしなく伸びた髪でそんな自信満々に語られても、イマイチ信用できなかった。
「なんだよその目は。信じてねーな、お嬢ちゃん。結構、有名だったんだぜ。小須田塁って名前ぐらい聞いたことあるだろ?」
「全然知りません」
「はーっ、これだから最近の若い奴は。今のJリーグだって俺たちが創設時にがんばったからあるようなもんなんだぜ」
「Jリーグとか興味ないですから」
「え? じゃあなんでこんな所にいるの?」
小須田が素っ頓狂な声を上げた瞬間、スタジアムに入場の音楽が鳴り響いた。
ゴール裏の熱烈なサポーターが太鼓を打ち鳴らす。
瀬津久を先頭にピッチに姿を現すU−18日本代表。その隣にチャ・サンボムを先頭とした韓国黄金世代。
アウェー側の観客席から「大韓民国」の合唱が鳴り響き、赤い下地に「RDB」と書かれたフラッグが掲げられる。
レッド・デビル・ベイブスの頭文字をとったものだ。
赤い悪魔と呼ばれる韓国代表。その子供達につけられた愛称だ。
「行けー! 頼むぜニッポン! 俺の人生がかかってんだからなーっ!」
小須田が大声を上げる。織恵はその様子をみて顔をひきつらせるしかなかった。
「うぜぇ」
日本の国歌が始まった瞬間、ハギュンは吐き捨てるようにつぶやいた。
もともとは裕福だったチャン家。だが植民地時代に日本によってその全てを奪われた。その上、没落したハギュンの曾祖父は怒りからデモに参加し、日本兵に殺された。
ハギュンもサッカーを始めたばかりの頃はとても貧しく、人が捨てたサイズの合わないスパイクを履いていたほどだ。借金取りに追われて夜逃げしたこともあった。
今こうして韓国ユース代表としてピッチに立てているのは、兄の力が大きかった。
兄は身を粉にして働き、腰を痛めてまで昼夜問わず働き、ハギュンのために留学費用を捻出してくれた。
たった一度のチャンス。
ハギュンはそれに全てをかけ、見事バルセロナのカンテラに入ることが出来た。
そしてユースの大会で活躍し、マンチェスターへと移籍した。
だがまだ足りない。兄は相変わらず腰を痛めたまま運送会社で働いているし、弟や妹たちも友達と遊ぶ暇を惜しんで働いている。父の給金はほとんどが借金の返済に充てられている。
ハギュンは仕送りを申し出たが父は「お前や兄さんが苦しんで得たお金を、父が受け取ることができると思うか」と突っぱねた。仕方なく、いつか妹や弟のために使えればとハギュンは仕送るつもりだったお金を少しずつ蓄えることにした。
サッカー選手として稼げる時期には限りがある。だからサイドビジネスのことも考えた。合宿に直行せず、東京に向かったのもそのためだ。
だが東京の地に降りて、ハギュンはますます反日感情を募らせる。
同世代の裕福な少年少女。ハギュン達が苦しんでやっと手に出来るようなものを、ゴミ屑同然に捨てていく光景。
自分達から全てを奪った連中のその振る舞いに、激しい怒りを募らせた。
「ははっ!」
奪われたものは奪い返してやる。
ハギュンは笑う。いつも笑顔やユーモアを絶やさないこと。苦しい貧乏生活の中でも笑いを絶やさないこと。どんなに苦しくても、苛立っても、妹や弟の前では笑っていること。いつしか怒りが強くなると笑ってしまう癖がついていた。
「ウェイミン。日本の連中に伝えて欲しいことがあるんだけど」
国歌斉唱が終わると同時に、ハギュンはウェイミンに微笑みかけた。
そして耳元で何かをつぶやく。
ウェイミンは顔をしかめる。ハギュンは何事もなかったかのように日本の選手達と握手していく。
とても友好的なハギュンの日本選手に対する振る舞い。その笑顔の下にどれだけの憎悪を隠しているのか。チームメイトながらぞっとした。
ウェイミンは握手を終えると、そのまま自陣へ散らばっていこうとする日本選手達に声をかけた。
「おい! ヘタレども!」
振り返る日本の選手達。あきらかに怒りを露わにしている。幾多もの憎しみの視線がウェイミンを串刺しにする。
「はるばる韓国から来てやったんだ。今夜はちゃんとサッカーをしような。こないだは小学生と遊んでいるような気分だったぜ」
「なんだとっ!」
樋池がハーフウェイラインを越えてウェイミンに詰め寄ってくる。その前に笑顔のハギュンが立ちふさがる。
「今のはそいつからの伝言だ」
ウェイミンはやれやれといった表情で告げる。怒りの矛先がウェイミンからハギュンへと移行した。
真っ赤な頭にいつもニヤニヤしている顔付き。久方ぶりにハギュンと対峙し、樋池の痩けた頬がひきつる。
気がつくと長い腕がしなやかに伸び、ハギュンの胸ぐらを掴もうとしていた。
「ジュン!」
瀬津久が叫ぶ。だがその声より先にハギュンの姿は樋池の視界から消えていた。
簡単なことだ、掴もうとした瞬間に懐に入られて見失っただけだ。樋池は反射的に視線を足下に移す。しかし目で追うよりも早くハギュンの姿は消えていた。
「デクノボウが」
背後に回り込んだハギュンが、わざわざ覚えておいた単語を口にする。
拳を固めて振り返る樋池。しかし振り返った先には瀬津久しかいなかった。
振り下ろそうとしていた拳を瀬津久に掴まれる。
「何やってんだ! 試合も始まってないのに退場するつもりか!」
樋池は瀬津久の言葉に耳を傾けることもなく、首だけ動かして背後を見る。気がつくと呆れた顔をしたウェイミンの横で、ハギュンがケラケラと笑っていた。
闇夜の爆撃機――ステルス――チャン・ハギュン。プレミアリーグでついた彼の二つ名。
密集したペナルティエリア内においても、誰にも捉えることの出来ない動き。小柄な体を活かしてディフェンスの死角から死角へと素早く移動する敏捷性。
前回対戦した時に、樋池は結局一度としてハギュンを捕まえることが出来なかった。
「冷静になれ。ジュン。挑発に乗れば、前回の二の舞だ」
瀬津久の言葉に樋池は舌打ちし、拳を降ろす。今頃になって審判が慌てて介入してきた。その対応に瀬津久があたり、樋池は自陣へと戻っていく。
「情けねぇな! 一発ぐらい喰らわせれねーのかよ!」
戻ってきた樋池に向かって、大作が言い放つ。
「あん!?」
今度は大作にくってかかろうとする樋池。そこへ羅門が長い髪を振り乱して止めに入る。
「ウェイミン! そこのちびっ子に言え!」
大作は声を張り上げた。
「今日はお前より点をとってやる。サッカーなんてさせてやらねーぞ。その真っ赤な髪が真っ青にさせてやるからな!」
大作の言葉を聞き、ウェイミンは思いっきりため息をついた。
「やれやれ……どいつもこいつも人を通訳扱いか……」
「なんて言ったんだ。アイツ」
珍しくハギュンが鋭い視線を向けてくる。
「この試合でお前より点をとってやるんだとさ」
「ハッ!」
ハギュンは大作を睨む。大作は余裕な表情でその視線を受け止め、センターサークルへ向かっていく。
「前はあんなデカイ奴いなかったな……あいつか練習試合で俺の代役をやったのは」
「そうだ」
「面白れぇ。本物と偽物の違いを見せつけてやるよ」
大作はボールをセットする。
ハギュンは短く息を吐き、気持ちを落ち着かせる。
日本のやつら全てに苦しみを。屈辱を。自分達家族が味わったものを倍にして返してやる。
日本の選手達も、スタンドにいる観衆も、日本国民全てを屈辱の海に沈めてやる。
そしてそれをステップに更に上へと昇っていく。
日本を食い物にしてやる。かつて曾祖父や曾祖母がされたように。
シンガポールの審判は両チームのキャプテンである瀬津久とサンボムに注意を与える。そして少しトラブルはあったものの、時間通りに試合開始のホイッスルを吹いた。
ホイッスルの音ともに大作はボールを蹴り出す。そして韓国陣内へと走り込んだ。
その瞬間、大作は黒く深い闇に絡め取られたような気がした。
10
韓国の選手が日本の左サイドにドリブルで
切り込んでくる。樋池はその様子を視界の端に納めながら、ハギュンの位置を確認する。
ボールから遠く離れた逆サイドで所在なくウロウロしている。
この動きに惑わされてはいけない。樋池は口元をぎゅっと引き締める。
ハギュンには恐ろしい瞬発力がある。ボールとは関係ないところにいながら、一瞬にして危険なエリアに入り込んでくる。いつだってマークをはずしてはいけない。だが近づきすぎれば逆にその瞬発力で一気にマークを引きはがされる。ベストな距離を保つこと。
あいかわらずハギュンは嫌な位置にいる。なんの考えもなくうろついているように見えて、樋池がボールを見ようとすれば死角に入るような位置取りをする。頻繁に首を振ってハギュンとボールの位置を常に把握し続けること。
他のマークなどについてはもう一人のセンターバック流辺や両サイドの羅門と小野寺、またはボランチの佐木や瀬津久が下がってきて見てくれることになっている。樋池に課せられた役割はとにかくハギュンを止めることだ。
必要とあらばファウルも厭わない。
その時、サイドからのセンタリングに備えてウェイミンがペナルティエリアに進入してくる。
大丈夫だ。ボランチの佐木がしっかりとマークしている。
樋池は視界の端にハギュンを収めながら状況を把握する。
センタリングが上がる。
ボールはウェイミンを越えて無人のエリアへと落ちる。
ハギュンの足が伸びる。
「なんでっ!」
樋池は思わず叫んでいた。
一度として見失ってはいなかった。それにも関わらずハギュンを引き離してしまっていた。
ハギュンのつま先にあたったボールがゴールへ向かう。しかしゴールラインを越える寸前で、キーパー針出の手に弾かれる。樋池は目の前に転がってきたボールを慌てて大きく蹴り出す。ボールはサイドラインを越えてボールボーイの腕の中に収まった。
ハギュンは惜しかったなぁと顔をしかめ、真っ赤な髪を掻いてみせる。
ずっと見ていた。すぐ側にいたはずだ。センタリングが上がる直前まで、ハギュンは一歩も動いていなかった。
それにも関わらず気がつけば手の届かない位置にいた。
恐ろしいスピードで移動したわけでもない。だがまるで空間でも切り取ったかのように二、三歩で六歩分の距離を移動してしまった。
ペナルティ内ではたった一歩の差が命運をわける。それが三歩となれば致命的だ。
とてもとても大きな差。
すぐ近くにいるはずのハギュンがとても遠くにいるように感じられた。
日本の右サイドで韓国の選手によるスローインが行われる。ボールを受けた選手に羅門と佐木が二人がかりで詰める。韓国の選手は反転してそれをかわそうとするが、うまいことボールが羅門の足に引っかかる。
羅門がボールを奪ったのを見て瀬津久は右サイドにより「こっちだ!」とボールを要求する。
羅門から瀬津久へとパスが繋がる。
瀬津久は大事にボールをトラップし、ピッチ全体を見渡す。
丁度右サイドを駆け上がろうとしていた洞木と目が合う。
走り出した洞木の足下へ、鋭く正確な瀬津久のパスが通った。自陣深くから、一気に敵陣のサイド深くへ――これだけの距離を正確に蹴れる瀬津久の技術に、洞木は改めて感心した。
しかしながら韓国の選手もさすがで、すぐに洞木の前に立ちふさがる。
抜ける。
洞木は確信した。国内のユース世代では敵なしのドリブル。たとえ韓国ユースであろうと抜いてみせる自信はあった。事実、前回の対戦時には後半残りわずかの出場だったものの、幾度か右サイドをドリブル突破できた。
ボールをまたぐフェイントと同時に体の向きを外側に向け、アウトサイドでボールを蹴り出そうとしてみせる。そして視界の端で韓国の選手の重心が傾いたのを確認して、ボールをインサイドに持ち替えて一気に内側に切り込んだ。
洞木のスピードに重心の傾いていた韓国の選手はついてこれない。あとは一気にゴール前まで運ぶだけだ。
そして洞木がペナルティの中をうかがおうと顔を上げた瞬間。ボールが消え、体が中を浮いた。
混乱したまま地面に打ち付けられる洞木。慌てて上半身を起こすと、悠然とドリブルするウェイミンの背中がみえた。
ディフェンダーと相対するまではまわりに誰もいないはずだった。だがディフェンダーに応対しているわずかな間に、さっきまでゴール前にいたはずのウェイミンがカバーに戻ってきていたのだ。
思えば軽いディフェンスだった。国内の相手でももっと駆け引きはある。黄金世代という割にはあまりに軽かった。
だがおそらくは韓国選手には見えていたのだろう。猛然と洞木の後ろから走り込んできたウェイミンの姿が。
だから外を切って洞木をウェイミンがタックルしやすい位置へと誘導したのだ。
抜けたのではなく誘導されただけだった。
洞木が立ち上がる頃には、ボールは日本のペナルティエリア近くまで運ばれていた。
しかも今ボールを持っているのは、さっき自分が抜いたと思った韓国選手だ。
なんという攻守の切り替えの速さだろう。
スピードが違う。まるで違う時間軸でプレーしているかのようだ。
日本の選手が次のことを考えようとしている時には韓国の選手は動き出している。
常に後手後手にまわらされている。
試合開始から五分も立たないうちに、洞木は韓国との差を痛烈に感じ始めていた。
大作は重々しいため息をもらす。
キックオフから十分が過ぎて、一度としてボールに触れていない。それどころかボールが近くにすらこない。
キックオフの時には確かに足下にあったあのボールはどこへ行ってしまったのだろう?
これじゃあ試合観戦だ。
オフサイドラインを気にして移動するのすら億劫になってきた。
また樋池の反応が遅れた。
さっきからずっと同じ事を繰り返している。
マークしなければならないハギュンを見失っているかのようだ。いつも一、二テンポ遅れている。
殺してやるとか息巻いてた割にはたいしたことないな。
大作は憫笑を浮かべる。
こうなれば失点するのも時間の問題だろう。
フリーになったハギュンにボールが渡る。慌てて樋池がシュートコースをふさぎに入る。
ハギュンはヒールでボールを後方に流す。
そこに走り込んできたウェイミンが軽く足を振り抜く。
ふわっとボールが上がった。
まるで鳥が飛び上がるように。
ハギュンと樋池が重なってキーパーの針出は完全にボールを見失っていた。
気がついた時にはボールは頭上を越えて、ゆっくりとゴールに吸い込まれていった。
軽くウェイミンとハイタッチをかわす韓国の選手達。
その気軽さは、練習試合か何かのようだ。
ジョギングするような感じで自陣へと戻ってくるハギュン。大作を見つけてニヤリと笑みを浮かべる。
そして何かいいながら、肩を竦めてみせた。
おそらくは馬鹿にしたのだろう。
苛立つ。
自陣に戻ると重苦しい空気が日本の選手達を包んでいた。
大作は奥歯を噛みしめた。
苛立つのはハギュンの態度のせいではない。
あまりにもふがいない味方のせいだ。
まるでもうあきらめてしまったかのようなムード。プライドの欠片もない。負け犬どもだ。
日地屋から渡されたキックオフのボールを、大作は怒りを込めて蹴る。シュートのようなボールが入江の胸に衝突する。
入江は咳き込みながらも、慌てて駆け出しサイドラインを割りそうになったボールをギリギリで止める。もう少しで相手スローインにしてしまう所だった。
「ヨコセェェェッ!」
大作の怒声がスタジアム中に響き渡る。
入江が顔を上げると大作はすでに敵陣深くに進入していた。
入江は驚きながらも、大作にロングボールを送る。
遅い! しかも下手くそだ!
すでに大作にはディフェンスリーダーのサンボムがマークについていた。
ガンッ! 背中に巨大な鉄球が衝突したかのような衝撃を受ける。しかし大作はよろめきながらも、なんとか踏みとどまりボールを胸でトラップする。
すっと胸で包み込むように優しくボールを受ける。ボールはまるで手で受けて降ろしたかのように、ストンと大作の足下に転がった。
大作は顔を上げてパスコースを探す。
しかし目の前にいるのは韓国の選手ばかりだ。日本の選手は遅れて上がってきている。大作は敵陣深くで完全に孤立していた。
遅い。
苛立ちがつのる。
サンボムを背負いながら大作は強引に反転する。引き倒そうと掴んでくるサンボムの手を、力任せに振りほどく。
来る!
勘なのか、経験なのかはわからない。だが後方からサンボムのタックルが来るのは分かっていた。
大作はボールごと軽く飛び上がり、サンボムのタックルをかわす。
ゴール前で完全にフリーになった。
すぐさまシュートしようとしたが、目の前に赤い影が飛び込んできた。
ここでもお前が来るかっ!
目の前に立ちふさがったのはウェイミンだった。
対峙するのを楽しみにしていた相手だ。
だが大作の両脇から韓国のディフェンダーが体をぶつけてくる。
くそったれ!
たいしたチャージではない。それでも動きは制限される。しかもパスする相手もいない。
ただ黙ってウェイミンにボールを奪われるしかなかった。
「クソがぁぁぁぁぁっ!」
再びスタジアムに木霊する大作の叫び。
スタンドの織恵にはどことなくもの悲しく聞こえた。
十分後、ドフリーでハギュンのヘディングシュートが決まった。
小柄なハギュン。おそらく誰かが体を寄せていればはじき飛ばせただろう。
しかし密着マークするはずの樋池が完全にハギュンを見失っている。他の選手も自分のマークで手一杯になっている。
前半終了五分前にハギュンの二点目が決まり、日本は完全に戦意喪失していた。
「壁凪。体を温めておけ。後半開始から行くぞ」
小洞は圭吾に声をかける。
結果はある程度予想していた。大きな差があることも分かっていた。
だがあえて前半は選手達に任せてみようと思っていた。
日本の選手というのは素直で、いつも監督の指示によく従ってくれる。練習メニューや戦術に不満を感じていても、文句もいわずこなす。その勤勉さは長所とも言える。
だがそれと同時に自分達で考えようとしない。
何かあればイチイチ監督の指示を仰ごうとする。
それではいけない。
サッカーというスポーツは局面局面で状況が変化する。そして無限の選択肢が産まれる。その中で監督が一つ一つプレーを止めて指示するわけにはいかない。局面に置いては自分で判断し、自分で選択しなければならない。サイドを狙えと大筋に指示することは出来ても、一人一人が今の状況でどう動けばサイドを効果的に攻められるかまでは指示できない。
その判断のスピード。それが韓国ユースとの決定的な差だ。
日本の選手がボールを止めてまわりを見渡しプレーを判断しているのに対し、韓国の選手はボールが来る前から自分のすべきプレーを判断している。
だからダイレクトでパスが出せるし、そのパスに反応できる位置に走り込める。
だからあえて小洞は戦術という戦術を決めず、選手達に判断させようとした。
前回の敗戦を受けて、選手達自身がどう対策を練ってきたかを見せて欲しかった。
キャプテンの瀬津久からは、選手間で少しは戦術の練習もして欲しいと不満が上がっているとも聞いていた。
しかし自分は所詮腰掛け程度の監督。その場しのぎの戦術を授けて韓国を奇跡的に押さえられたとしても、何が残るというのだろう。
次の監督になって新たな戦術が授けられれば、何もしなかったのと同じだ。
だから日本の選手達には韓国との間にある判断力の差を身をもって感じて欲しかった。
局面局面で自分達で考え選択する力を身につけて欲しかった。
選択を間違えることもあるだろう。それが原因で負けてしまうかもしれない。
だが間違えたことは経験となる。次に同じ状況になった時に、同じ間違いを犯さなければいいだけだ。
サッカーに正しい答えなんかない。
後半に一点リードしていて相手ゴール前でチャンスを迎えた時、追加点を狙いに行くか、コーナーでボールをキープするか、どちらが正解かなんて誰にもわからない。
追加点を狙ってカウンターから失点して非難されることもある。コーナーでキープしてチャンスをつぶし、結果追いつかれ、チャンスに点を取りに行かなかった消極性を批判されたりもする。
ただ迷って何もせずにボールを失うよりは、何かして失敗した方が先に進める。
この試合でそれに気づいて欲しかった。
だからこそ大作や圭吾を呼んだ。
まだ早いという声はあったものの、この二人には彼らにない積極性がある。
我を押し通し、時には監督の指示すら無視する大作。
自由奔放に何にもとらわれず、無心にプレーをしてみせる圭吾。
前半終了の笛が鳴る。
0対3。
スコア以上に打ちのめされた感じで戻ってくる日本の選手達。
あとどれだけの間、彼らの傍にいられるかはわからない。
この試合で敗れ、すぐに解任される可能性もある。
だからこそ彼らに何か残せてやれればと思う。
入れ替わるように圭吾が控え選手達とピッチへと走っていく。
大作が悔しそうにボールをピッチに叩きつける。
そのボールを軽くトラップして頭の上に乗せ、圭吾は大作に微笑みかける。
「まだまだ前半が終わっただけじゃん。こっから逆転する方がカックイイと思わない?」
「ハン! 前半見てわかっただろう? このチームは弱すぎなんだよ」
「チームなんかどーだっていいじゃん。大ちゃんがあと四点とればいいだけのことでしょ?」
「俺が四点とっても相手がその間に何点とるかだな」
大作は失笑し、気だるそうに引き上げる韓国の選手達を睨む。まるで喜んでもいない。いかにも当然のことだといわんばかりの態度が鼻につく。
「だったらそれ以上に点をとればいいじゃん」
「その前にボールが俺の所まで来ないんだよ」
「あー、それなら大丈夫。後半はぼくが入るから」
圭吾は嬉しそうに笑ってみせた。そして頭の上からボールをするりと背中をつたわせ踵を使って自分の足先へ転がし、ぽんっとボールを大作に向かって蹴り出す。
「何度でも最高のボールを送ってあげるよ。だから決めてね。大ちゃん」
スピンのかかったボールが芝をえぐって大作の足下でピタリと止まる。
小洞は微笑んでその様子を眺めていた。
例え自分が去っても、彼らがいれば大丈夫だ。
これからそれを証明してくれるはずだ。
そしていずれはチーム全体が生まれ変わるかもしれない。
小洞はスタジアムの上空を見上げる。
真っ白なライトで星はほとんど見えない。
強い強い光に照らされて消えてしまっているが、星は小さくとも輝きを放っている。
そして強い光の中でも輝きをみせる星達もわずかながらにある。
それらは大作と圭吾だ。
その輝きを見て、他の星々も自分達が輝いていることを思い出して欲しい。
韓国黄金世代の強い輝きに消されず輝く星になって欲しい。
小洞は踵を返し、選手達の待つドレッシングルームへ向かう。腰が痛んだ。数年前から歩くのも少し億劫になってきている。
だがゆっくりとしている時間はない。
わずかな間にどれだけの言葉をかけてあげられるだろうか。
やらなければならないことはまだまだいっぱいある。
老け込むのはそれからだ。
11
まるでお通夜だな。
大作はドレッシングルームを出るなり、うんざりとため息をもらす。
まだハーフタイムだというのに負けたかのような空気。あまりの重々しさに耐えきれず、トイレに行くフリをしてドレッシングルームを抜け出した。
新鮮な空気を吸いたいと思った。
ピッチサイドに出るわけにはいかないので、こっそり関係者出入り口からコンコースへ抜け出そう。
大作が歩み出すと同時に、目の前の曲がり角から小洞監督が姿を現した。
「あ……」
「おっ」
バツの悪そうな表情を浮かべる大作に、小洞は笑みを向ける。
「ちょっとトイレに……」
「おや? てっきりまたオンナにでも会いに行くのかと」
小洞はニヤニヤといやらしい笑みを向ける。
「は?」
「壁凪に聞いたぞ。試合前にオンナに会ってたそうじゃないか。見に来とるんだろ?」
そこでやっと織恵と会っていたことを思い出した。どこからか圭吾が覗いていたらしい。大作は思わず舌打ちする。
「あれは違う。俺のオンナじゃない」
「いいじゃねえか。見逃してやるよ。気分を入れ替えてこい。どうせお前にゃ戦術なんて足かせにしかならねぇだろ」
「だから――っ!」
小洞は背中越しに、しっしっと手で追い払うようなしぐさをみせ、渇いた笑いを漏らしながらドレッシングルームのドアを開ける。
大作はもう一度舌打ちし、ドレッシングルームに背中を向け歩き出した。
スタジアムを一人歩いていると、何人かの家族連れとすれ違う。
そのたびに心が凍りつくように震えた。
スタジアムの外では夏の日差しを受けて、陽炎がゆらめいている。
まるで現実じゃないような世界。
どこか感じている世界と自分とのズレ。
取り残されたかのような孤独感。
合わせようと努力した頃もあった。友達の話に愛想笑いをふりまいたり、興味のない遊びにつき合ったりもした。だがすぐに疲れた。
いつからそれが始まったのかわかっている。
あの日、あの瞬間、父に自分の存在を拒絶された時からだ。
楽しいことなんてひとつもなくなった。
安らげることなんてひとつもなくなった。
悲しいことなんてひとつもなくなった。
苦しいことなんてひとつもなくなった。
ただひとつ、激しい怒り。
いつも何か苛立っていた。
その怒りの全てをぶつけられるのがサッカーだった。
サッカーで父を見返すことだけが自分の全てになった。
「そこの君。いくらなんでもハーフタイムに抜け出すのは問題だぞ」
どことなくふざけた口調に、大作は眉間に皺を寄せ振り返る。背後には腕組みをした織恵が立っていた。
「うるせーよ。監督の許可はもらってんだよ!」
監督ときいて織恵は小洞とのやりとりを思い出す。少し変わったおじいちゃんだった。あの人ならそういうことを許すかもしれない。少し会っただけだが、そんな感じがした。
大作はすぐに織恵に背を向け、風に当たるように手すりに肘をついた。
いつもは強く迫力のある背中が、なんだか小さく見えた。
「ねえ――このまま負けちゃうの?」
織恵の言葉に大作の肩が、ピクリと反応した。
「負けるだろうな。このチームは弱すぎる」
大作は吐き捨てるように言った。
「まだ半分しかたってないのに」
「見てるだけじゃわかんねーんだよ。韓国と日本じゃ差がありすぎだ」
「どんなに差があっても番狂わせがおこるのがサッカーなんじゃないの? どんなすごいチームでも弱いチームに足下をすくわれることがあるのがサッカーじゃないの」
「そんなのは滅多には起きねぇよ。だからそーゆー試合は奇跡的に語られるんだ」
織恵は顔をそむけて大作に聞こえるようにため息をもらす。
「情けない――ホントッ、情けない。あんだけ強気なこと語っておいて、結局自分より強い相手が出てきたらすぐに尻尾巻いて逃げ出すんだから。吠えられるのは弱い相手にだけなわけ?」
「あっ?!」
大作が怒りのまなざしを向けてくる。
不思議と怖くなかった。
あからさまな怒りの表情。だけど時々かいまみせる獣の瞳に比べたら子供だましのようだった。
「いい気になってサッカーをわかったつもりになって語ってさ。何もしないうちからわかりきったようになって……そんなの外で騒いでるミーハーな子達と何も変わらない! 試合なんてやってみないとわからないじゃない!」
「お前に何がわかるんだよっ!」
大作が詰め寄ってくる。
普段ならこんな長身の男に詰め寄られれば怯んでしまうだろう。だけど今は耐えるどころか、睨み返すことすらできた。
「わかるよ! あんたに分からないことがわたしにはわかる! わたしにはめぐまれた才能も体格もない。それでもサッカーは楽しいものだって知ってる! サッカーに絶対はないって知ってる! 今まで思い通りになってきたあなたとは違う」
織恵は大作の胸に指を突きつける。
「お父さんがどうとか本当は関係ない。サッカーが好きなんでしょ――好きなもので負けるのがくやしいだけでしょ」
「くだらねぇ」
そうは言ったものの大作は織恵の顔を見ることが出来なかった。
わからない。
父のこと――自分のこと――なにもかもがグチャグチャになっててわからない。
とにかく苛立つだけだ。
何か分からないものにイライラしている。そんな自分にもイライラしている。
「じゃあ勝って見せなよ! そのくだらないっていうサッカーに負けてんじゃないよ! ぶっ潰すんでしょっ!」
大作はゆっくりと顔をあげ織恵を見る。
その目だ。
その目を見るためにわたしはわざわざ広島までやってきた。
背筋を凍りつかせる視線。
獣の瞳。
「お前に感謝してやる」
「なにそれ。すっごい偉そう」
「そうだな。ごちゃごちゃ考えるなんて俺らしくねぇや。目の前の敵は全部ぶっ壊す。それだけだ」
日本ユース代表に選ばれたことで少し浮かれていたのかもしれない。
いつの間にか負けることを恐れていた。怯えて、負けることをチームのせいにしようとしていた。
いつだってチームなんて関係無しに自分のプレーを貫いてきたじゃないか。
相手がどんな奴だろうと何点でもとってやる。味方がどんな奴でも勝利してやる。
自分はそれだけ絶対的な存在になってやるのだ。
サッカーに踊らされ、食いつぶされた父とは違う。
自分はサッカーに喰われるのではなく、サッカーを喰ってやるのだ。
「今度お前の試合を観に行ってやるよ」
大作は笑った。
「未来のJリーガーに来てもらえて光栄ですわ」
織恵は軽く笑い、おどけてみせた。
「違うな――未来のバロンドールだ」
苛立ちは消えていた。
怒りをぶつける先はわかっている。
ただひとつ。
ただ一瞬。
その全てをボールにたたき込むだけだ。
ウォン・ウェイミンはどこか温い空気を感じていた。
いつも通りのチーム。慣れ親しんだ空気。それでもなにか違和感を感じる。
「まったくどーしょもねー雑魚だな。あれで日本のユース代表なんだぜ。日本サッカーの未来はお先真っ暗だ」
ハギュンがケラケラ笑う。
「何度も言うが、油断してると足下をすくわれるぞ」
「誰に? あんな幼稚園児みたいな連中じゃどんなにがんばってもふらつかせることすらできねぇよ。日本人は大人しく家にこもってアニメとかゲームとか作ってりゃいいんだよ」
ウェイミンは黙っている。ハギュンは細い目をさらに細めて笑い続ける。
「なあ、面白いだろ? 笑えよ、ウェイミン」
ウェイミンが無表情のままでいると、笑顔のままハギュンが胸ぐらを掴んできた。
その瞳はもう笑ってなかった。
「笑えっていってんだろ。この裏切り者」
それでもウェイミンは表情を崩さない。逆にハギュンの苛立ちが募る。
「大好きなママの国が負けてちゃ笑えねぇか? あん?」
ハギュンの笑みがどこか歪んだものになる。
「なあ知ってるか? このチームからお前を孤立させてやったのは俺だよ。あることないこと噂を立ててお前をのけ者にするようにし向けたんだ。お前がチームにいられるのは力があるからだ。だからお前は勝ち続けなきゃならない。負けたらただのゴミなんだよ。負けたら韓国中がお前を戦犯にするだろうよ。そしてお前の親父の立場も危うくなるんだ」
鼻持ちならないエリート。何の不自由もなく充実した教育を受け、そしてその才能をいかんなく発揮している。
ウェイミンをみるたびハギュンは苛立った。
あまりに対照的な人生。そしてその男の血には半分日本人のものが混じっているという事実。
「おい! 何をやってる!」
キャプテンのサンボムがドレッシングルームの片隅にいた二人に声をかける。それと同時にハギュンがすばやく手を離した。
「何でもないですよ。サンボム兄さん。ちょっとトリックプレーの打ち合わせを」
ハギュンは、いつものようにチャラけた笑みを浮かべる。
サンボムもそれだけ言って再び二人に背をむけディフェンス陣と談笑をはじめる。一瞬だけ、険しい瞳でウェイミンを睨んで。
全てがとるにたらないことだ。
どうでもいいことだと、ウェイミンはひとりごちた。
しょせん全ては一瞬にして消えるほど儚いものだ。
人類の歴史なんて、宇宙の誕生からみたら塵にも値しない。
野心を燃やし、上を目ざし続ける父。
過去にすがり、孤独に怯える母。
何をそんなに必死になる必要があるのだろうか?
いずれは誰もが死に、全てが無に帰るというのに。
国の問題なんてどうでもいい。
プライドなんてどうでもいい。
勝ち負けなんてどうでもいい。
いつか消える時まで、運命に流されるまま生きていけばいいだけだ。
だから静かにしていて欲しかった。
なにを騒ぐ必要があるのかわからない。
とにかくうるさいのは嫌いだった。
あまりのうるささに韓国を去って日本へ来た。
その日本で待ち受けていた母もまたうるさい存在だった。
だから一度は消そうとした。
あの炎の中で全部消そうとした。
いっそのこと世界中が燃えてなくなればいいとすらおもった。
何もない焼け跡。
見渡す限りの焦土。
そこに立てたらどれだけ心安らぐだろうか。
サッカーをしている時、ごくたまにその風景をかいま見ることが出来る。
音も何もない静寂の世界。
全てが手に取るように感じられ、全てが緩やかに動いていく。
クラシックの指揮でもしているかのような恍惚感。
全てがウェイミンの思い描いたどおりに動いていく。
心安らぐ世界だ。
騒がせるつもりはない。
試合終了のホイッスルに向けて、緩やかに世界を閉ざしていくだけだ。
ただひとつだけ心配事があった。
静謐な世界を乱しかねない存在が、日本ユースにいること。
非常にうるさい存在だ。
黙らせなくてはならない。
何人たりとも、この世界を乱すものを許してはならない。
誰かがドレッシングルームのドアをノックした。
サンボムが軽く手を叩く。
韓国の選手達が立ち上がる。ハギュンも何か叫んでいた。
だがもうウェイミンの耳には何の音も届いていなかった。
選手交代ボードが提示され、ピッチに壁凪圭吾がはいると、サポーター席から歓声が上がる。
だが場内アナウンスが「日本ユース代表、9番、日地屋竜人選手に替わって20番、壁凪圭吾選手の登場です」と告げると、どよめきが起こる。
飛び級の圭吾の存在は、確かにサポーターの間でも話題になっている。しかし3点差で負けている状況でエースの日地屋を交代させたことにサポーターも困惑しているのだ。
ポジションに着く選手達。右サイドバックだった羅門がセンターの位置に入り、真ん中に流辺を一人余らせた3バックとなる。そして左サイドバックの小野寺が中盤に入り、洞木がやや低めの位置をとることで3−5−2の布陣が形成される。
「前半韓国に支配されまくったからな。中盤を厚くしようって考えか」
大作は他人事のようにチームメイトが声をかけあってポジションを確認しあう光景を眺めていた。
「多分、チャン・ハギュン対策だと思うよ」
ふと見下ろすとすぐ側に圭吾の幼い顔があった。小学生だといわれても信じてしまうような華奢な体つきと童顔。
「ハギュン対策?」
「ハギュンのマークをやめてゾーンで守れって監督から指示があったんだ」
「おいおい。あんな危険な奴のマークをほどいていいのかよ」
「さあ? でも監督の指示だからね」
圭吾はたいして興味もなさそうにいった。
その態度に大作も頷く。
そうだ自分の仕事はより多く点をとることだ。余計なことは考えなくていい。点をとることに集中するんだ。
大作は両手で軽く自分の両頬を叩いた。
パチンという乾いた音が響く。
「チャン・ハギュンのことは守備陣を信頼しようよ。ぼくらの当面の敵はウォン・ウェイミンだからね」
圭吾はそういってハーフウェイラインの向こうを指さす。
その細い人差し指の先――韓国陣内の中央に位置し、スラリと背筋を立てて悠然と構える背徳の貴公子――ウォン・ウェイミン。
「さて、ここでクイズです。ウォン・ウェイミンの最大の武器とは何か?」
圭吾はウェイミンを指していた人差し指を空に向け、まるで少年探偵が謎を解き明かした時にみせるような笑みを浮かべる。
「正確無比なパス」
「うん。それも武器だけど『最大の』ではないかな」
「味方を的確に動かすコーチング」
「ああ、近づいてきた」
「情報をもとにした戦術眼」
「あっ、惜しい!」
「お前、いいかげんにしろよ!」
大作は大きな手で圭吾の頭を押さえつける。
圭吾は降伏した合図に両手をあげて「ごめん! ごめん!」と顔をくちゃくしゃにして笑った。
「戦術眼――そうまさに『目』だよ」
圭吾はそういって自分の大きな目を指さす。
「神の視界をもっているんだよ」
「神の視界?」
「そうまるでピッチを観客席の一番上から見下ろすような感じ。つねに全体の動きを把握する能力。どこにスペースが産まれ、どこで誰がどんな動きをしているか、ピッチの隅々を瞬時に把握する能力。それを事前に仕入れておいた相手選手の情報に重ね合わせることで、次の展開を予測し、まるで未来が見えるかのようにプレーが出来るんだ」
大作はなんとなく納得した。意味はよくわからなかったものの、前半日本が後手後手にまわらされたのは、ウェイミンの能力のせいらしい。
「実はぼくの幼なじみも同じ力をもっててさ。ホント、ピッチの隅々で起きていることを瞬間で細かく把握できるんだ。だけどその友達はその力をもてあまして、今はちょっとスランプに陥ってるみたいだけどね。だからこそウォン・ウェイミンを破る方法がわかったんだ」
「ウォン・ウェイミンを破る」
大作の言葉に圭吾は太い眉をつり上げて、得意げな表情をみせた。
「見えるけれど、手を出せる訳じゃない。どんなに優れた視野をもっていても、10メートル先のボールを自由にできるわけじゃないんだ」
すっと圭吾の顔から笑みが消える。そして挑むような目でウェイミンを睨んだ。
「指をくわえて見てろ。ウォン・ウェイミン」
そのつぶやきと同時に、後半開始のホイッスルが鳴らされた。
ハギュンからキックオフされたボールがウェイミンを経由して左サイドに展開される。
それと同時にハギュンがペナルティに向かって走り込んでくる。
ハギュンの姿を確認すると、樋池は身を固くした。
小洞監督から指示されたこと――ハギュンマークを放棄する。
どうして? と尋ねたが監督は「自分で気づけ」としか答えてくれなかった。
今は従うしかない。なんだかんだで今の自分ではハギュンをマークしきれなかった。何か言える立場ではない。今はただ与えられた役割をこなすだけだ。
自分のエリアに入ってきた相手をことごとくはじき返す。もちろん一人では苦しい場面もあるが、そういう時は流辺が上手くカバーしてくれることになっている。だからこそ自分は明確な動きをすること。そうすることで流辺もカバーしたり、指示出したりしやすくなる。
ハギュンが視界の端に映る。だがそこは羅門が守るべきゾーンだ。くやしいが今はハギュンのこととらわれてはいけない。
韓国の左ウィンガーが洞木のマークを振り切ってセンタリングをあげる。やはり洞木は攻撃的な選手な分、守備に不安がある。
樋池は自分の守備エリアに飛び込んできた韓国の選手をマークする。
だがボールは樋池の頭上を越え、遠いサイドに落ちていく。
そこにはハギュンの姿があった。
だがハギュンのマークについた流辺が軽々と競り勝ち、ヘディングでボールをペナルティの外へとはじき飛ばす。
ふと、樋池は違和感を感じた。
ハギュンが唇を噛んで、渋い表情をみせていた。
確かにこれほど簡単に跳ね返すことができたのは初めてだ。
今までにもペナルティエリアにボールが入って点にはならなかったことがあるが、常に冷や汗をかかされるような状況だった。
そしてハギュンも惜しかったと顔を歪ませることはあっても、こんなに苦しそうな顔をみせることはなかった。
流辺が跳ね返したボールをウェイミンが拾う。そこに瀬津久が詰めていくと、ウェイミンはすばやく右サイドへ展開する。
正確なパスが右ウィンガーに届くと、ウェイミン自身もペナルティに進入してくる。
そのマークに流辺がつく。そしてハギュンが樋池の守備エリアに飛び込んできた。
センタリングがあげられる。
ハギュンの動きは恐ろしいまでに機敏だった。
だが樋池はその動きに対応することが出来た。
いくらなんでも、すぐそこにいる相手を見逃すことはない。
樋池がハギュンの目の前に立ちはだかる。その瞬間、ハギュンが顔をゆがめて舌打ちした。
ボールは誰にも触れることなく、逆サイドを割った。
なぜだかわからない。
前半はまったく捉えることの出来なかったハギュンの動きが手に取るようにわかった。
ウェイミンは視線を巡らせ、日本のベンチを見る。
杖を片手にパナマ帽をかぶり、座ったままにこやかな笑みを浮かべている老人。
小洞道夫。まだJリーグが出来る前の日本リーグ時代に天皇杯優勝請負人と呼ばれた人物。
喰えない老人だと、ウェイミンは目を細めた。
ハギュンが海外の屈強なディフェンスと戦っていくために身につけた能力。消える動き。
そしてそれをさらに進化させた『見える動き』。
注目されてない頃は相手の視界から消えることで得点を量産していた。
だが相手も警戒し、ハギュンに密着マークをつけるようになってきた。
小柄なハギュンはマークに付かれればかなり苦しくなる。競り合いではまず勝てない。
だからそのマークを引き離す必要がある。
だがマーカーも簡単に引きはがしてはくれない。
そこで考えたのが『見える動き』だ。
視界には中心視と周辺視というものがある。
ちょうど目の前に当たる中心視は細かく見ることの出来るエリア。そして両脇の周辺視は大ざっぱに見ているエリアだ。そして周辺視は動くものにとても敏感に反応する。
ハギュンはその周辺視にいることで相手マーカーを安心させる。ディフェンダーは常に首を振って、ボールとマークする相手を見てなければならない。だからボールを見る時に視界の端にハギュンが映っていることで、二人を同時にみることが出来て安心する。
ハギュンはその心の隙間をつくことにした。
視点を変えれば、当然周辺視も動く。左を見れば左に。右を見れば右に。
その動きに合わせてハギュンも動く。普段なら動くものに敏感に反応する周辺視だが、周辺視自体の動きに合わせてハギュンも動くため、意識の中ではハギュンがまったく動いていないように見える。
そしてセンタリングが上がった瞬間には、ハギュンが瞬間移動でもしたかのように位置を変えているのだ。
もちろん大きく動くわけではない。
せいぜいが二、三歩。
だがその二、三歩がサッカーにとっては命取りになる。
数センチの差で通るパスが通らなかったりするのだ。
そしてハギュンには恐るべき瞬発力がある。
たった一歩離しただけで、手の届かない位置にいってしまうと考えてもいい。
そこで小洞監督はハギュンを見ないことを選んだのだ。
自分の守備エリアを決めて、そこを守ることに専念させる。そうすることでハギュンを見失うことはない。ハギュンが移動する先には常に誰かの視線がある。
そうなれば上背もなく当たりに弱いハギュンは苦しくなる。
だがそれでも韓国が有利なのは揺るがない。
3バックにしたため両サイドには大きなスペースが産まれる。とくに日本の右サイドの洞木は守備に不安を抱えている。
なんどもサイドからチャンスが産まれれば、中のディフェンスを厚くしたといえ、いつかはほころびが出来る。
ハギュン以外の選手がどんどんとペナルティに進入し、マークしきれなくなって失点するのも時間の問題だろう。
もちろん中盤を厚くしたことでボールを支配できれば、その危機を減らすことが出来る。
だが自分がいる限りそれは叶わない。
いくら中盤に人を割こうと、自分には関係ない。
韓国の優勢は揺るがない。
日本の選手がスローインする。
試合が再開されると共に、ウェイミンの世界がピッチ全体へと広がる。
だれがどこで何をしているか。その全てを把握し、次に自分がどうすればいいか、味方をどう動かせばいいかを瞬時に判断していく。
ウェイミンはチームメイトに細かく指示を出しながら自陣の右サイドへと駆け出す。
韓国の左サイドを攻め上がろうとしていた
洞木が、二人のマークに付かれ瀬津久にボールを渡す。
こういう時に瀬津久は決まって薄くなった逆サイドに展開する。正確なキック精度をもつ瀬津久は、逆サイドに針の穴を通すようなロングボールを送ることが出来る。
そしてウェイミンの予想通り、瀬津久は逆サイドへと鋭く正確なボールを送った。
そのボールの落下点には、圭吾が待ち受けていた。
壁凪圭吾。
普通ならU16日本代表に選ばれる選手だが、その実力から一つ上のU18に抜擢された。
なんとか彼のプレーを分析しようと、中学時代のビデオを入手することが出来た。
ボールを自在に操るドリブルと、ディフェンスの裏をかくパス。そしてどんな体勢からも正確なキックを放つことが出来る。
ボールを持たせれば危険な人物だ。
だがまだ体も出来ていない。少し接触しただけで、よろけてしまうシーンも多々あった。
トラップした瞬間を狙う。
トラップの瞬間は誰もが無防備になる。ダイレクトでパスを送るという選択もあるが、他の選手にはマークを付けておいた。
もはやトラップするしか選択肢は残されていない。
そしてウェイミンがすぐ目の前に迫った瞬間――圭吾は笑った。
笑った?
ウェイミンがサッカーを始めて、はじめて体験する出来事だった。
点を取った時や、プレーが止まった時などに笑う選手はいた。だが試合中――しかもこんな差し迫った状況で笑う選手は初めてだった。
圭吾は左の膝でボールを優しく受け止め、上半身を右側に向ける。
トラップでウェイミンの右側を抜こうとしているのだろう。
だがその動きはウェイミンの予測のうちだった。ボールが落ちる瞬間を見計らって、ウェイミンは圭吾がトラップして進もうとする方向に体を寄せるつもりだ。ボールと相手の間に体を入れて、鮮やかにボールを奪う。もしかしたらファウルをとられるかもしれないが、カードが出るほどのプレーではないし、フリーキックを蹴られて怖い位置でもない。ドリブルをされるよりはマシだ。
だがウェイミンが思ったよりボールは弾まなかった。ボールが膝に触れた瞬間に、圭吾がボールの勢いを殺すように膝を引いていたのだ。
ボールがするっと圭吾の足下に落ちる。そして右に向けていた上半身を、くるっと左に向ける。
ボールがちょうど圭吾の右足の甲の上に落ちる。
そしてそのボールを持ち上げるように右足を動かし、圭吾の右側をふさごうとしていたウェイミンの逆へボールを運び出した。
慌ててウェイミンは体勢を変えようとするが、その頃には圭吾はウェイミンの右脇をすり抜けていた。
やられた。
ウェイミンは無理に体勢を変えようとしたせいで倒れそうになりながらも、なんとか踏ん張り、振り返る。
圭吾の背中が見えた。
その圭吾の前に詰め寄るサンボム。
その瞬間、ウェイミンには先の展開が見えた。
これからピッチの上で何が起ころうとしているか、鮮明に思い描くことが出来た。
それと同時に、もう何もかもが手遅れだということも理解できた。
声を張り上げてもどうにもならないだろう。
黙って見ているしかなかった。
それは明滅する光。
深い深い黒に刹那の瞬きをみせるもの。
一歩先すら見えぬ深い闇。そんな風に感じられた韓国のディフェンス。
大作がどれだけもがいても抜け出すことが出来なかった暗闇。
だがそこに一筋の光が差した。
ただの一瞬の光。
きっとすぐには消えてしまう。
その一瞬に感覚を研ぎ澄ませていく。
体の中に溢れる破壊衝動を、一点に叩きつける。
自分の目の前で、獲物が無防備な姿をさらした。
圭吾がボールをひとつまたぐ。だが警戒心の強いサンボムはそのフェイントにかかることはない。じっくりと間合いをはかる。
ストッ。
サンボムは一瞬、何が起きたのかわからなかった。
圭吾が右足でボールをまたいだかと思った
次の瞬間、ボールが消えたように思えた。
なんのことはない。ただまたいだのとは逆の左足でボールを押すように蹴っただけだ。
だがそれはほとんどノーモーションで行われた。
足を振ることはなく、目の前にあるボールを体全体の勢いを左足に乗せて押しただけだ。
完全にタイミングを逸したサンボムを嘲笑うように、彼の股の下をボールがスルリッと抜けていく。
振り返った瞬間、大作マーカーを背負いながらボールを蹴っていた。
キーパーはほとんど反応も出来ず、ゴールネットが揺らされた。
後半開始から五分。
いままでチャンスらしいチャンスを一度として創らせなかった。
だがたったひとつのトラップで全てが崩された。
ウェイミンはため息をつく。
不安は的中した。
自分の世界をかき乱す存在。
壁凪圭吾。
ビデオをみた時点から感じていた。
観客を沸かせるようなプレー。まったく先の読めないトリッキーな動き。
だからこそプレーさせないようにしたかった。
ボールを持たせて前を向かせないこと。自由にさせないこと。
だがトラップ一つで簡単に振り切られた。
もう同じ手にかかるつもりはない。
だがこれから先も、圭吾はウェイミンの予想を越えるプレーを見せるだろう。
圭吾のマークにだけ集中すれば、ある程度は防ぐことが出来るかもしれない。
だがそうすればチーム全体を舵取りする人間がいなくなってしまう。
ハギュンがディフェンス陣に対して何かをわめき立てていた。思い通りのプレーが出来ない苛立ちからか、ほとんどがトゲのある言葉ばかりだ。
そのキツイ言葉にディフェンス陣も顔をしかめる。
不協和音が鳴り響く。
雑音だ。
パチパチと爆ぜる炎の音。
その炎の向こうにある母の姿。
顔の半分を黒き炎に焼かれ、彼女は微笑む。
『勝ち続けなさい。ウェイミン。そしてわたしたちは幸せになるの』
やがて母は黒き炎に飲み込まれ、黒き怪物へと変貌する。
怪物は命じる。
全てを飲み込めと。
全てを黙らせろと。
全てを無に還せと。
ウェイミンはゆっくりと顔を上げる。
サポーター席に向かって手をあげる大作。その大作に抱きつく圭吾。
スタジアム中に響き渡る歓喜の声。
怒鳴り合うハギュンとサンボム。
「……五月蠅い」
ウェイミンは無表情のまま小さくつぶやいた。
12
にぶい痛みを覚えて、織恵は握りしめていた拳を開く。じっとりと汗の滲んだ手の平に、しっかりと爪のあとが残っていた。
歓声が上がる。
その大声援に導かれるように、織恵の視線も再びピッチへ向けられる。
韓国の選手が日本の左サイドをドリブルで駆け上がる。すかさず右ウィングバックに入った洞木が身を投げ出すようにタックルを仕掛けた。
洞木は苦手なディフェンスながらも、かろうじて足先にボールを当てる。コントロールを失ったボールは羅門の元へ。
ボールをもった羅門にハギュンが猛スピードで詰め寄る。
だが羅門はそのプレッシャーに負けることなく、落ち着いてボランチの佐木へとボールを繋いだ。
佐木の元へも韓国の選手がプレッシャーをかけようとするが、それよりも早く佐木は瀬津久へとパスを出す。
ハーフウェイライン近くでフリーになった瀬津久は得意のロングパスで一気に左サイドを駆け上がっていた小野寺にボールを送る。小野寺はそのまま快足を活かし、韓国の右サイドバックを置き去りにする。
前半とはまるで別のチームだった。
選手一人一人がそれぞれの個性を存分に発揮している。
織恵は視線をボールから一人の選手へと移す。
ピッチ上の選手の中で、最も小柄で華奢な選手。まるで一人だけ小学生が混じっているかのようだ。
だがその存在がチームを劇的に変えた。
壁凪圭吾という存在が。
ドリブルするたびに何人もの選手を抜き去る。そしてマークを集中させれば、ディフェンスを嘲笑うかのようにトリッキーなパスを通す。
彼がボールを持つたびに観客は沸き上がった。
小野寺の前にウェイミンが立ちふさがる。
見事なカバーリングだった。展開を先読みして、手薄になった逆サイドのカバーに入っていた。
しかしそのウェイミンの背後に圭吾が飛び出す。
小野寺は圭吾に向かってパスを送る。オフサイドギリギリのタイミングで圭吾が抜け出した。
さすがのウェイミンも一対二では止めようがなかった。
しかしこの展開も想定済みで、サンボムに指示を出し、圭吾のマークに付かせていた。
左サイドを深くえぐろうとする圭吾に、サンボムがしっかりとついていく。
ここまでは前半と変わらない。
すべてがウェイミンの予想通りだ。
トンッ。
圭吾がボールを追い越し、左足のヒールでパスを送るようにピッチの中央へ蹴り出す。
ボールはちょうど圭吾と併走していたサンボムの背後をすり抜け、サンボムはボールを見失う。
サンボムは慌てて足を止めて振り返る。
しかし圭吾は足を止めずそのまま縦に走り抜け、サンボムを回り込むようにピッチ中央へ切れ込む。
サンボムが転がるボールを見つけた頃には、回り込んだ圭吾が一足先にボールを拾い、ドリブルで中央に切れ込んでいた。
慌ててもう一人のディフェンダーが圭吾に詰め寄る。
そのディフェンダーの脇を、圭吾の蹴り出したボールがすり抜けていく。
ボールはピタリと大作の足下へ。
二人のディフェンダーが圭吾に引きつけられ、ゴールと大作の間を阻むものはゴールキーパーだけになっていた。
ゴールキーパーはシュートをブロックしようと、体を倒し大作の足下へ身を投げ出す。 ちょんっ、と大作はボールをすくうように蹴り上げた。
ふわっと腰程までに浮いたボールは、倒れながらも手を伸ばしたゴールキーパーの指先をかすめ、ゴールへと吸い込まれていく。
どくんっ!
心臓が高鳴った。
織恵は思わず胸を押さえる。
自分が試合をしている時でも感じられないような緊張感。
ポンッ、と一度バウンドしてからゴールラインを割った瞬間、夜空に歓声が鳴り響き、織恵の緊張感も一気に解放された。
胸の奥辺りで何かが爆ぜて、全身が熱くなっていく。
織恵はスタジアムに設置された電光掲示板の時計を見る。
後半二十分。
逆転するにはまだまだ十分な時間がある。
悔しそうにボールを持ち上げた韓国のゴールキーパーから、大作が力任せにボールを奪い取る。ゴールキーパーは激昂して大作につかみかかろうとするが、大作は身をひねってその手を振りほどき、ピッチ中央へと走っていく。追いかけようとするゴールキーパーをサンボムがなだめにかかる。
大作は、どこか苛立っているようだった。
歓喜に沸きハイタッチを交わし合う日本ユース代表の中で、一人だけ苛立っている。
確かにまだ負けているとはいえ、それほどまで追いつめられるような状況だろうか?
大作はセンターマークにボールを置き、顔を上げる。
険しい双眸。
まるで相手に追加点を奪われた後のようだ。
「苦しいだろうな……大作」
隣に座っていた小須田がふいにつぶやいた。
「え?」
そのタイミングの良さに、織恵は思わず疑問を声にしてしまった。
それに反応してかどうかはわからなかったが、小須田はピッチを見たまま続ける。
「観客が沸くプレー。サッカーの楽しみ。あいつが否定しようとしてきた全てが、今目の前で輝きを放ってるんだ。自分の価値観――いやそれどころか存在すら否定された気分だろうよ」
小須田は悲しそうな瞳をピッチに向け、ボサボサの頭を無造作にかきむしった。
なんだか織恵には、その様子が酷く苦しそうに見えた。
この男は日本の勝利に賭けていたのではなかったか? しかも自分の人生がどうとか、借金がどうとか言っていたのを覚えている。
その日本が追い上げムードになったというのに、どうしてこんなに苦しそうな顔をしているのだろう?
大作の苦しみはなんとなく理解できた。
この小須田という男の言うとおり、否定しようとしていた観客を楽しませるプレーが、自分達を窮地から救っているのだ。
圭吾の魅せるプレー。
それはまさに大作がくだらないと吐き捨てたものだ。
それに頼るしかない自分が、悔しくて悔しくて仕方ないのだろう。
だがこの男が苦しがる理由がわからない。
元プロだと名乗り、創設時のJリーグを支えたと豪語するこの男が――。
ふいに織恵の中で何かがひとつに繋がった。
悲しみに満ちた男の瞳。その視線はずっとひとりの人物に送られている。
もう試合の結果などどうでもいいというように。
自分の人生などどうでもいいというように。
「ひょっとしてあなたは――」
織恵の言いかけた言葉は、スタジアムを震わすような大歓声にかき消される。
後半二十七分。
またひとつスーパープレーが圭吾の足から産まれた瞬間だった。
瀬津久から放たれたロングボールを、ペナルティエリア手前で受けようとする圭吾。
さすがに二失点目からはサンボムが圭吾に張り付いていた。パスコースも完全に塞いでいる。そして背後から挟み込むように、ウェイミンがカバーに入っていた。
自分とウェイミンで囲めば、いくら圭吾といえども何も出来まい。
それでもサンボムは油断することなく、圭吾の動きに集中した。
ボールを持たせたら、どんなフェイントを仕掛けてくるかわからない。
瀬津久から放たれたロングボールは、鋭くも正確に圭吾の足下へと落ちていく。
サンボムは競り合ってボールを奪えるように、圭吾に詰め寄った。
体のぶつけ合いになれば、こんな華奢な男に負けるはずがなかった。
圭吾がボールの落下点に右足の内側を出す。
ふいに圭吾の視線がサンボムを捉える。
そのままボールを蹴り上げて自分の頭上を抜いてくるかもしれない。
その予感がサンボムを一歩とどまらせる。
すっと、圭吾の足がボールに触れることなく、前方に振り抜かれる。
スルーした?
サンボムはそのまま硬直する。
この先に誰かいただろうか?
視線をボールの進行方向に移そうとした瞬間、逆再生でもするかのように圭吾の足が戻される。
通り過ぎかけていたボールに、その踵が触れた。
ヒールパスか!
しかし後ろにはウェイミンがカバーに来ているはずだ。
圭吾はそのままボールを蹴った右足をピッチにつき、軸足にして時計回りに回転する。
くるっと背後を向くと、すぐ目の前にウェイミンが迫っていた。
そして二人の中間当たりにボールが浮いている。
まるで空中で止まっているかのようだ。
何度も何度も練習してきたプレーだ。振り向く瞬間にはどの位置にボールがあるか把握していた。
そして自然に左足が出る。
ウェイミンの伸ばした足より、一瞬だけ早く圭吾の左足がボールを捉えた。
そして回転する力を活かして、左足ごとボールを再び背後へと運ぶ。
サンボムは、ギョッとする。
一度は目の前から消えたボールだった。
だが圭吾がターンした瞬間、再び目の前に現れた。
そしてそのまま自分の左脇を圭吾と共にすり抜けていく。
慌てて追いかけようとした瞬間、勢い余ったウェイミンがサンボムに衝突する。
そのまま二人はピッチに倒れ込む。
圭吾は二人を置き去りにして、ペナルティエリアへとボールを運ぶ。
だがカバーに入っていたボランチの選手が立ちふさがる。
さっきのようなことがないように、ゴール前を固めていたのだ。
大作にもしっかりマークが付いている。
だが圭吾はかまわずに左足の外側でボールを蹴り出す。
外側で蹴り出したため、圭吾のマークについていたボランチの選手はタイミングをつかめず、やすやすとセンタリングをあげさせてしまった。
だが所詮は外側で蹴り出したボール。勢いはまったくない。キーパーが飛び出して処理できるものだった。
ザンッ!
ボールを捕ろうとしたキーパーの前を、黒い影がよぎった。
大作だ。
ボールが放物線を描き、頂点に達する前に、大作の額がボールを捉える。
誰一人反応できなかった。
頂点を越えて落ち始めたボールならいざしらず、上がりかけのボールに合わされては、反応のしようがない。
結局、誰一人動くことも出来ず、ボールはゴールネットに突き刺さった。
訪れたのは歓声ではなく、沈黙だった。
観たものを疑うかのように、目を見開く者。口をあけて反り返る者。逆に身を乗り出す者。
何かが壊れた瞬間だった。
世界を作り上げていた何かが、激しい衝撃音を立てて崩れ去った。
ボールが落ちて、ゴールの中に転がった瞬間、観客席で誰かが拳を突き上げた。
それを合図とするかのように、言葉にならない叫びがスタジアムを埋め尽くす。
空席の目立つ観客席にもかかわらず、まるで満員のスタジアムのように、熱気がピッチへと押し寄せてきた。
その中央で黒い獣が何かを叫んだのを、織恵は確かに見た。
喜びだったかもしれない。
怒りだったかもしれない。
何かを叫んだけれど、すぐにチームメイト達にもみくちゃにされて見えなくなってしまった。
ピッチがおぼろげに見えたので、スタジアムが揺れているのかと思った。
だけど違った。
ふと目元に手をやると、自分が泣いていることに気づいた。
織恵は思わず笑った。
サッカーを観ているだけで、自分が泣いてしまうとは想像もしてなかった。
それが嬉しいせいなのか、緊張から解放されたせいなのか、まったくわからなかった。
何の感情かはわからないけれど、胸が焼けるように熱く、口元を覆った両手は小刻みに震えていた。
のちにミーハーなサッカー情報番組で、フライング・マルセイユ・ルーレットとライジングヘッドと呼ばれることになる、ふたつのプレー。
まさに壁凪圭吾と十河大作のスタイルを象徴するかのようなプレーだった。
何もない空間をキャンパスにして、あらゆるものを描くようにプレーをする壁凪圭吾。
たった一つのチャンスに、己の全てを叩き込んでゴールを奪う十河大作。
この瞬間、二人はユース代表の座を揺るがないものにした。
ハギュンがキックオフのボールを蹴り出しても、スタンドの興奮は収ることはなかった。
息を吹き返し大声援を送る日本サポーター。負けじと「大韓民国」の合唱を続ける韓国サポーター。そして先ほどのプレーにざわつく観客。
バチバチと音を立てて燃える炎のようだ。
ウェイミンは苛立ちを誤魔化すように奥歯を強くこすり合わせる。
スタジアムが熱気に包まれるほど、選手達が熱くなるほど、ウェイミンの心は冷えていった。
絶望をくれてやれ。
何かが耳元で囁いた。
真っ黒な何かが、深く深くからはい出してくる。
私の世界を乱すものを排除せよ。
ウェイミンはゆっくりと歩を進める。
敵も味方も関係ない。
ただ一つのことに集中する。
いままでピッチの隅々まで行き渡らせていた全ての集中力を一点に集結させる。
ハギュンのシュートがキーパーに弾かれる。樋池がルーズボールを慌ててヘッドでクリアする。
あと五秒。
ウェイミンはピタリと足を止めた。
以前、ハギュンが言い放った言葉を思い出す。
試合に勝つ事なんて、人生に勝つことに比べたら容易い、と。
そう。フットボールなど、とるにたらないものだ。
何も小難しいプレーをする必要なんてない。
ただ一つのことをすればいいだけだ。
実に明瞭。
樋池がクリアした、こぼれ球を韓国の選手が拾う。
あと二秒。
その選手はハーフウェイラインと日本ゴールの中間辺りでフリーになっているウェイミンにパスを送る。
あと一秒。
ウェイミンはパスを受ける。
そして笑った。
絶望しろと。
足を振り抜く。
敵味方、様々な選手が入り乱れる中を、一つのボールが走り抜ける。
誰もが触れることの出来ない位置を、絶妙なスピードで抜けていく。
だがそのすべては死せる空間だ。
誰にも見えていなかった、誰にも反応することの出来ない、絶対的なスペースをボールが走り抜ける。
そして必死に飛び上がったゴールキーパー針出の手の1センチ上を抜けて、ゴールバーの1センチ下を通り、すとん、と日本のゴールの中に収った。
先ほど以上に沈黙がスタジアムを覆った。
誰もが呆然としていた。
劇的な同点シーンから、たったの五分も持たずに再びリードを奪われた。
大砲のような一撃でも、嘲笑うようなループシュートでもなく、何気ないただのロングシュートひとつで失点してしまった。
スーパープレーでわき上がったスタンドを沈黙させるには十分なプレーだった。
きっと誰の目にも、ただ何気なく蹴ったロングボールがたまたまゴールに入ってしまったかのようにしか見えないだろう。
ただの偶然。もしくはゴールキーパーのミスとしか受け取られない。
聞こえてくるのは不運だと嘆く日本サポーターの重苦しいため息と、韓国サポーターによるラッキーだといわんばかりの失笑だけだ。
ゴールを奪うことも――
サッカーで勝つことも――
これだけで十分なのだ。
派手にボールをこねくり回す必要もない。
全身を叩きつけるようにぶつかる必要もない。
ただボールを蹴って相手ゴールにより多く入れればいいだけのことだ。
壁凪圭吾は三次元をフルに使ってプレーする。
縦と横だけでなく、高さというものもコントロールしてみせる。
だが自分はさらにその上をいく。
高さだけじゃなく、時間すらもコントロールする。
四次元をフルに使ってプレーできる。
どのタイミングで、どの位置を、どんなスピードでボールが抜ければ、誰にも触れられずにゴールに入るかわかっていた。
もちろんそれには多大な集中力がいるし、90分それを続けるのは至難の業である。
だが一瞬だけなら容易いことだ。
ピッチの全てを瞬時に把握できて、ピッチの選手の行動を予測でき、正確なボールを蹴る技術をもった自分には、それが可能だ。
ここは自分が支配する世界なのだ。
ウェイミンは右手を高らかに挙げる。
そして無表情のまま、チームメイト達に告げた。
「下がれ」
その言葉にハギュンが激昂する。
「下がれだと?! 日本相手に守りには入れって言うのか!」
「後半すっかり大人しくなったかと思えば、口だけは達者だな」
ウェイミンはハギュンに冷ややかな視線を送る。ハギュンは髪の色と見分けがつかなくなるくらい顔を真っ赤にして、ウェイミンに殴りかかろうとする。
しかしウェイミンの胸ぐらを掴んだ時点で、サンボムに取り押さえられる。
「離せ! サンボム兄貴! この売国奴は俺たちを侮辱したんだぞ!」
「冷静になれ! ハギュン! 我々の目的は勝つことだ! 欲にくらんで負けてしまったら、どの面下げて祖国に帰れるかっ!」
「そんなへっぴり腰だからいいように抜かれるんだな」
ハギュンが歪んだ笑いをサンボムに向ける。だがサンボムは言い返すことなく受け止める。
「認めるしかない。あの小僧は十分に脅威だ。ウェイミンに言われなくてもリードを守るためには対策が必要だと思っていたところだ。闘争心や負けん気も大事だが、時には冷静に相手を分析することもサッカーには必要なんだ」
審判が何事かとハギュン達の方に詰め寄ってくる。
ハギュンは舌打ちして、サンボムの手を振り払った。
「どいつもこいつも……いっとくが俺は下がらないからなっ」
「いいだろう。そのかわりカウンターの機会にはしっかりと決めてくれ」
サンボムはそれだけ言うと、審判に笑顔を向け「何でもない」と話し始めた。
ハギュンはウェイミンをひと睨みし、そのまま舌打ちして前線へと向かっていった。
ウェイミンは短くため息を漏らす。
どいつもこいつも騒がしい。
全て消えてしまえばいい。
深淵からはい出した怪物は、すっかり自分の体を浸食してしまったようだ。
ウェイミンは冷ややかに笑みを浮かべた。
13
苛立ちが大きくなっていく。
なんなんだろうアイツは。
大作は鋭い視線を圭吾へと向ける。
圭吾がボールを持つたびにスタジアムの空気が熱くなるかのようだ。
その小さな体を躍動させ、屈強なディフェンダーを一人、二人と鮮やかにかわしていく。それでもゴール前は引いた韓国選手達が密集しており、囲まれて体をぶつけられ、さすがの圭吾もボールを失う。
こう密集してくると、体格の劣る圭吾では苦しくなっている。
それでもボールは圭吾へと集まる。
ピッチの中心は、いつでも圭吾にあった。
圭吾を中心に、世界が眩い光を放って輝いている。
遠い記憶と重なる光景。
あの時の中心には、父がいた。
届かない光の中に、父がいた。
ウェイミンの叫び声が聞こえる。
混乱したゴール前を統率し、日本にチャンスらしいチャンスを与えていない。
そして前線ではいつもハギュンがゴールを狙っている。
さっきまでの余裕が韓国チームからは感じられない。
たった一人でゲームを変えてしまった。
それは大作にはできなかった事だ。
ふっと小さな火がともる。
体中が徐々に熱くなっていく。
自然と頬がほころんでいった。
嬉しいことだ。
破壊衝動がわき上がる。
敵を見つけたことにより、今まで漠然と追っていたものが、はっきりとその背をみせた。
アイツが俺の敵だ。
圭吾がディフェンダーに倒されながらも大作にパスを送る。
屈強なディフェンダーが大作に体を当ててくる。
今までにない衝撃に、口の中のどこかを切ったらしい。血の味がした。
だがそれでも大作は腰を落とし、ボールを優しく足下に止める。
今、密集したゴール前で韓国の選手と互角に競り合って勝てるのは大作ぐらいだった。
ゴール前まで上がってきた瀬津久が、声にならない叫びをあげる。
大作は瀬津久へとパスを送る。大作が体を張ってボールをキープしたおかげで、瀬津久は前をむいてプレーすることができる。
そして正確なキックでゴールを狙う。
だが蹴られる寸前に目の前にウェイミンが飛び出してきて、シュートされたボールを体に当ててブロックする。
後半も40分を過ぎている。しかも夜とはいえ、ピッチ内の温度は30℃を越えている。
そんな中でウェイミンの動きだけが際だっていた。
息もほとんど乱れていない。
それもそのはずで、ピッチのあらゆる所に顔を出しているようだが、ウェイミン自身はそれほど走り回っているわけではない。
いつでもピッチの状況を分析し、必要な時だけ最短距離を移動している。またはゲームをコントロールして、自分の元へボールを誘い込んでいる。
結局、試合のほとんどはウェイミンにコントロールされていた。
それでも圭吾の動きだけはコントロールしきれなかった。
ロスタイムの表示されたボードが第四審判によって掲示される。
あと二分。
韓国の選手がピッチサイドに立ち、交代の準備をしている。
おそらく時間を稼ぐつもりだろう。
次がおそらく最後のチャンスになる。
ゴールというものを考える。
大作にとってそれはいつも奪うものだ。
ゴールにボールを叩き込み、相手を落胆させることが快感だった。
たった一つのゴールが人の命を奪うという事件もあった。
ただボールがラインを越えたか越えないかで、人の人生が大きく左右される。
父もまた、人生を狂わされ堕ちていった一人だ。
なぜこんなことで人の命運が左右されなければならないのか。
たかがゴム製のボールがラインを越えたか越えないかに、何故人はこれほどに熱狂できるのか。
何故、こんなにも必死な思いをしてボールを運ばなければならないのか。
どいつもこいつも馬鹿ばかりだ。
そんなものに人生を狂わされるなんて馬鹿げてる。
父も、父のプレーに熱狂し祭り上げた連中も、馬鹿だ。
楽しさなんてものは、全部否定してやる。
圧倒的な力でゴールを奪い、サッカーから根こそぎ面白さを奪ってやる。
サッカーをつまらないものだと思い知らせてやる。
圭吾がディフェンダーに挟まれながらも右サイドにパスを出す。
洞木がそのボールを受け、サイドをえぐり、ゴール前を見た。
大作と目が合う。
密集したゴール前で、唯一韓国のディフェンダーと渡り合える存在。
クロスが上がる。
時にゴールというのは、暗闇に浮かび上がる刹那の瞬きのようなものだ。
狼たちは午後の暗闇に身を潜め、牙を研ぎ、その獲物が無防備な姿を現すのを、じっと待っている。
一センチ触れるところが違うだけで、ボールは見当違いの方向へ飛んでいってしまう。
百戦錬磨のプロ選手であっても、無人のゴールへのシュートをミスしてしまうことがある。
獲物に牙を突き立てることができるのは、本当に刹那の瞬間だけなのだ。
大作は飛び上がる。
誰よりも高く、誰よりも強く。
ただの一点を目指して。
その額にボールが当たる。
大作の額に弾かれ、ボールは軌道を変え、ゴールへと向かう。
手を出しかけたゴールキーパーの脇を抜け、一度ピッチにバウンドしてゴールへと向かう。
恍惚とした瞬間が待ち受けていた。
あのラインを越えれば、全ては破壊される。
誰もが呼吸を止めて、ボールの軌道を目で追った。
スタジアム中の視線がひとつのボールへと注がれた。
不思議なものだ。
大作はボールの行く先を眺めながら、今までにない感覚を味わっていた。
それはまるで世界が停止したような感覚だった。
一枚の写真を眺めているかのようだ。
全てが一つになり、一つが全てになったかのような感覚。
ボールがゴールへ転がっていく様を、これほどまでに美しく感じたのは初めてだ。
世界には自分とボールしか存在していない。
そんな気がした。
ボールはラインの手前で弾かれた。
ガガンッ!
静寂を破ったのは激しい衝突音。
続いたのはため息混じりの歓声。
そしてけたたましいホイッスルの音。
審判がボールを保持し、その手を天に突き上げる。
試合終了の合図。
ゴール前に駆け寄る韓国の選手達。遅れてチームドクターがピッチへ駆け込んでくる。
その中心でハギュンがゆっくりと上半身を起こした。
ボールをはじき返す代償に、頭からゴールポストに衝突したらしく、額のどこかを切っていた。
真っ赤な血が顔の半分を覆っている。
「守るっていうなら、しっかり守りやがれ! なんで俺が守備してやらなきゃなんねーんだ! 畜生!」
ハギュンは、味方に対して怒声をあげる。チームメイト達は呆然としたり、苦笑したりしながら、ハギュンの怪我を気づかった。
ドクターの問いかけを無視して、ハギュンの視線が大作を捉える。
大作はその瞳の奥に、真っ赤な炎が見えた気がした。
もう言葉は必要ない。
大作もハギュンを睨み返す。
だがすぐに多くの韓国選手達によって、その視線は遮られてしまった。
全身の力を抜くようにため息を漏らす。
どっと疲れが体にのしかかってきた。
そして呆然と電光掲示板に表示された試合結果を眺める。
「負けちゃったね……」
気がつくと隣に圭吾が立っていた。
その目は潤み、口元は強く引き締められている。悔しさで全身が震えているかのようだ。
振り返ると日本の選手達がお互いをたたえ合っている。
負けはしたものの何かの手応えを感じたのだろう。中には笑顔の者までいる。
スタジアムの観客達も、そんな選手達に拍手を送っていた。
十分にやったと。
あれだけ絶望的な状況から一度は追いついた選手達をたたえていた。
本気で悔しがっているのは圭吾だけだ。
このピッチの中で、誰よりも傲慢で、誰よりもどん欲な獣は、この小さな少年なのかもしれない。
「いずれお前を叩きつぶしてやる」
大作は吐き捨てるようにいった。
「え? 何?」
圭吾は去っていく大作の背中に声をかける。しかしすぐに記者達に囲まれ、その背中は見えなくなってしまった。
大作はピッチを出る寸前で視線を感じ、顔を上げる。
目の前には黒く引き込まれそうな双眸。
試合終了直後だというのに、息一つ乱さず悠然と立つ姿。
ウォン・ウェイミンの黒い前髪が、風になびく。
「ハギュンからの伝言だ。『次は絶対に勝つ』だそうだ」
「勝つ? 勝ったのはお前らだろう?」
大作が眉を潜める。ウェイミンは視線を逸らし鼻で笑う。
「どちらが多く点をとるか、という例の勝負のことだろうよ。実にくだらない話だな」
そういえば試合前にそんな勝負をしていた。すっかりと忘れていたが。
おそらくそんな些細なことでもハギュンには許せなかったのだ。
完全な勝利でなければ、納得できないのだろう。
そんな闘争心が、完璧主義が、彼をあの地位まで高めたのかもしれない。
「お前もくだらないと思っているんだろう?」
ウェイミンは笑みを浮かべ、スタジアムを眺める。
大作は新鮮な気持ちでウェイミンを見る。
彼が笑みを浮かべるのを、初めて見た。
「たかがボール遊びでこれほどまでに騒ぎ立てる連中を」
「別に」
大作はウェイミンの横を通り過ぎ、スタジアムへと向かう。
ウェイミンと話していると、なんだか心がざわついた。
ウェイミンは、何か自分の中にある、黒く禍々しいものに話しかけているかのようだ。
「なあ、十河大作――」
背後からウェイミンの声がかかる。
まるで地獄の底から悪魔が問いかけてきているかのようだ。
振り向いてはいけない。
そんな気がした。
「お前はサッカーが好きか?」
大作は一瞬だけ足を止める。
そしてすぐにまた歩き始めた。
「決まっているだろう」
答える必要なんてなかった。
この悪魔は大作の心を見透かした上で問いかけているのだ。
まるでその心の傷をかき回して喜んでいるかのように。
どん欲に勝利を求め突き進む圭吾やハギュンのような獣たち。
だがウェイミンは違う。
こいつは無欲だ。
何も欲していない。
そして何も欲していないくせに、皆殺しにしようとしている。
無欲に、意味もなく、不必要な数の獲物を牙にかけていく。
真夜中の闇には、時としてこういう怪物も紛れている。
黒き獣の牙が、すっと大作の首筋を撫で、その背中を震わせた。
織恵は立ち上がり、涙をふく。
悔しさは収まり、何とも言えない寂しさが胸を覆っていた。
ふと、隣をみると小須田は姿を消していた。
慌てて探そうとしたが、一歩も踏み出さないうちにやめた。
会ったところでどうしたいのかもわからない。
何が良いのかもわからない。
サッカーに魅入られ、人生を狂わせた者。
一体、サッカーとは何だろう?
いままではプレーして楽しむことがサッカーの全てだと思っていた。
だがそれに人生を賭ける者もいる。
それを観るだけで楽しめる者もいる。
サッカーわ愛する者もいれば、憎む者もいる。
サッカーへの関わり方は実に多様だ。
ただ解るのは
自分もサッカーに魅入られたということ。
きっとこれからもサッカーと関わっていく。
「おい!」
ふと見上げると、ニット帽にサングラスをかけた長身の男が立っている。ものすごくガラの悪そうな感じだった。
一瞬、織恵は目をそらしかけたが、再び「おい!」と声をかけられ男をみる。
そしてそれが大作であることにやっと気づいた。
「まったく……こんな所まで一人で来るなんて寂しい奴だな……一緒に来てくれる友達くらいいねーのかよ」
「日本ユースの試合なんてマイナーすぎて誰もつきあってくれないって」
織恵は吐き捨てるように答えた。
「監督がよ。話したらさ。福岡まで送っていってやれってよ。まったくいい迷惑だ」
「別に! 一人で大丈夫だけど!」
「ケッ! かわいくねー!」
大作は強引に織恵のメッセンジャーバックを奪い取る。
そしてさっそうと出口へ向かった。
「ちょーど良かったよ。チームの打ち上げとか、インタビューとか面倒だったからな!」
織恵はふと大作の背中に問いかける。
「ねえ! アンタにとってサッカーって何なの?」
大作が振り返る。
そして短くため息のようなものを漏らす。
「知るかよ」
大作は吐き捨てるようにいって、苦笑を浮かべた。
「まだまだ俺のサッカーは始まったばかりなんだよ。そんな小難しいこと考えてる余裕なんかねーよ!」
織恵は少し呆然とし、そして笑った。
「なんだ? 突然。気持ち悪りーな!」
「別に」
そうだ。
今すぐに答えを出す必要なんかない。
ゆっくりとサッカーと関わっていきながら考えればいい。
何も焦る必要はない。
今は自分のやり方で、自分のペースで、サッカーを楽しんでいけばいい。
そしていつの日か答えをみつければいいんだ。
自分にとってのサッカーがなんなのか。
サッカーとどう関わって生きていきたいのか。
ゆっくりゆっくりやっていこう。
まだ自分達のサッカー人生は、ハーフタイムにすら至っていないのだから。
XII・サイドストーリー
「狼たちの午後」
了
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