XII−NO.12の戦士達−

バベルの塔
 
   
     第九節 バベルの塔
 
    1
 
 窓の外を見ると、オレンジに染まった東京のビル群。
 一千万を越える人が暮らす街。
 こんな高い場所から見下ろすと、そのひとつひとつがちっぽけに見える。
 ひとりひとりの強い想い。
 人が放つ善意や悪意。
 あの豊田スタジアムの中でぼくにむけられた、強く、凶暴で、純粋な意志。
 思い出すと今でも身震いする。
 こんな高いところにいては感じられるはずもないもの。
 人の手が届かない場所。
 台場パイレーツ本社『株式会社トライデント』のオフィスがある高層ビルの三十二階。
 応接室のブラインド越しにオフィスをみると、社員達が電話に出たり、パソコンに向かい合ったりとせわしなく動いている。
 親会社シュンポシオン・タパス・ジャパンから派遣されたパイレーツ代表取締役――鮎川美里。
 彼女は言った。
 サッカーはビジネスだと。
 美男子選手を集め、十代女性という客層を確保し、集客難にあえいでいたパイレーツを立て直した手腕。
 実力よりも話題性を重視した補強は各メディアの批判の的にもなった。しかしその批判を浴びることで、メディアへの露出が増大し、逆にパイレーツの宣伝になっていった。
 たしかにパイレーツはそれで持ち直した。
 成績こそ変わらないものの、経営上の収益はJ1のトップにひけをとらないものとなった。
 かくいうぼくも、ルックスで呼ばれた口だ。
『国立競技場で優勝が決まった瞬間――喜びに沸く選手達の中で、あなたが壁凪圭悟を見ていた目』
 美里さんがいった、ぼくを獲得した理由。
 ぼくの所属していた名古屋市立東城高校が高校選手権で優勝した瞬間。
 ぼくが一度もピッチに立つことなく高校選手権を終えた瞬間。
 幼なじみの壁凪圭吾がヒーローになった瞬間。
 ぼくは彼を睨んだ。
 ありったけの嫉妬と憎しみと殺意をこめて。
 
   2
 
 ピクシー! オレ!
 ピクシー! オレ!
 スタジアム中を包んだ歓声。
 その中に幼いぼくと幼い圭吾の姿もあった。
 ストイコビッチの引退試合。
 思えばあのころのぼくは希望に満ちていた。
 中学のサッカー部に入り、ぼくと圭吾は一年目からレギュラーの座を掴んだ。
「引退するときはストイコビッチみたいにみんなに惜しまれながら引退したいなぁ」
 ストイコビッチの引退試合が行われた豊田スタジアムからの帰り道。幼いぼくが言うと、幼い圭吾は笑った。
「まだプロにもなってないのに引退の事考えてるの?」
「絶対プロになるさ。高校行って、全国優勝して、グランパスで一年目からレギュラー獲って」
「三汰はすごいなぁ。置いてかれないように、ぼくもがんばらないと」
「弱気な事いってんじゃねーよ」
 幼い圭吾はただ笑っていた。
 それから数年後、ぼくが語った夢は、圭吾によって成し遂げられた。
 ぼくと圭吾を決定的に分けたのはなんだろう。
 天才。
 簡単に言ってしまえばその一言だ。
 もちろん圭吾なりに努力していたのは誰よりも知っている。
 誰よりもよく知っているから、余計に苛立つ。
 圭吾をみるたび劣等感を感じさせられた。
 高校に入ってたらぼくのポジションだったトップ下を奪い取った圭吾は、その才能と努力を華々しく開花させ、ぼくが描いていた夢の全てを実現させていった。
 全日本ユースのエースの座を掴み、高校選手権を優勝に導き、ストイコビッチがつけていたグランパスの10番を手に入れた。
 日本中の期待が圭吾に注がれていた。
 中学まではずっとそばを歩いていたのに、いつの間にか手も届かない遠くへ行ってしまった。
 それでいて圭吾自身は変わらなかった。
 教室や部活で会うたび、気軽にぼくに話しかけてきた。
 ほとんどがサッカーの話で、レアルの移籍がどうだとか、セリエAの優勝はどこだとか、誰のプレーがすごかっただとか、他愛もない会話に始終した。それでも圭吾はいつもと変わらず楽しそうだった。
 変わったのはぼくの方だった。
 いつしか圭吾を見かけては背を向けるようになった。先行く圭吾の背中を追いかけるのではなく、見ないようにした。
 それでも圭吾の話題はぼくの耳に入った。
 サッカー雑誌で、ニュースで、部室の話題で、圭吾の名前が頻繁に上がった。
 そのたびにぼくの中にある黒くて醜いものが、どんどん膨らんでいった。
 
 目を閉じると今でも浮かんでくるあの音。
 豊田スタジアムの歓声の中で聴いたあのにぶい音。
 夢が希望が寸断される音。
 悲鳴をあげて倒れた圭吾。
 あの時のぼくの心に憎しみはなかっただろうか?
 あの時の倒れた圭吾を見て、笑っている自分はいなかっただろうか?
 否定は出来ない。
 激しい嫉妬がぼくを支配していたのは確かなんだ。
 嫌でも目や耳に入ってくる圭吾という存在に、いい加減嫌気がさし、引きずりたおしてしまいたくなった。
 追いつけないなら。
 止めてしまえばいい。
 圭吾の歩みを
 止めてしまえばいいと。
 本当にぼくは思わなかっただろうか?
 わからない。
 わからない。
 
   3
 
 ぼくはどうしてこんな場所に座って居るんだろう。
 ピッチとは遠く離れた場所。
 もしあの時、台場パイレーツに入らなければ、こんなに苦しんだりしなくて済んだだろう。
 どこかの大学サッカー部に入って、気軽にサッカーやりながらキャンパスライフでも楽しんでいただろう。
 雫奈緒は純粋な気持ちでパイレーツのチアガールであるマーメイドになりたいと言った。父親の形見ともいえるパイレーツを心から応援していきたいと。
 パイレーツの前身であるシーメンズ月島のエースだった奈緒の父親。
 チームをJリーグ入りさせるため、体中をボロボロにしながら戦った人。その代償からチームを追われ、妻を事故で失った。
 パイレーツのために全てを犠牲にした人がいた。
 その想いを受け継いで、パイレーツを応援する少女がいた。
 パイレーツを営利目的の二部チームと考えていたぼくは、奈緒を通じて考えを改めるようになった。
 その想いに答えてやりたいと思った。
 だけどぼくが答えてやれるだろうか?
 答えられる力なんてあっただろうか?
 マーメイドになったアカネちゃんは、大好きな小山君会いたさに追いかけてきた。
 奈緒を卑怯な手を使って引きずり降ろしてでも、パイレーツのマーメイドになろうとした。
 卑劣であっても、それだけ強い想い。
 ぼくはそんな強い想いをもってパイレーツの一員になっただろうか?
 シーラカンスと揶揄されるシーメンズ時代の選手たち――岩井や福田たちは、自分たちのシーメンズを愛し、ルックスだけで入ってきたぼくらに敵意をむける。
 歌手業をこなしながら選手としても活躍する小山君。モデル業をこなしながら少ない練習に励む神川兄弟。 
 ぼくはとても中途半端だ。
 チームに対する愛もない。
 チームに対する想いもない。
 誰かのような目標もない。
 ただ漫然とパイレーツの一員となった。
 プロサッカー選手になった。
 その結果、日本の至宝である圭吾を傷つけた。
 あれから圭吾の怪我の経過が思わしくないことはスポーツ新聞をみて知った。
 場合によっては選手生命に関わる大けがだという。
「プロなんやから、どんなに辛くても食べなあかん」
 寮の管理人であるちかちゃんはそういってぼくに無理矢理でも食べることを勧める。
 おそらく一生懸命作ってくれただろう料理は、なんの味もしなかった。味覚も食欲も消えてしまっている。
 心配そうな表情を浮かべるちかちゃんに、ぼくは「大丈夫」と笑って返すことすら出来なかった。
 
   4
 
 俺と一緒にフィールドで死のう。
 神楽監督がグランパス戦の直前にドレッシングルームで言った言葉。
 ピッチの上で死ぬ。
 ぼくにその覚悟があっただろうか?
 高校サッカー部の顧問だった麻生先生は、プロの世界は甘くないといった。
 ぼくはその警告を、使い古された言葉だと聞き流した。
 プロになって、ディフェンダーにコンバートされて、粋がって出た練習試合で散々なプレーに始終し、圭吾との差をみせつけられ、あげくに圭吾に致命的な怪我を負わせた。
 ぼくは何をやっているんだろう?
 何がやりたかったんだろう?
 自虐的な笑いがこみ上げてきた。
 一体、ぼくはどこへ向かっているんだろう?
 何がしたいんだろう?
 一緒のピッチに立ちたい。
 圭吾との約束。
 圭吾は今頃何を思っているんだろう?
 怪我を負わせたぼくを恨んでいるだろうか?
 自分の不幸に絶望しているだろうか?
 窓の外をみるとビル群の向こうに消えていこうとする夕日。
 遠い遠い場所で圭吾も夜を迎える。
 ぼくらはもう二度と並んで歩くことはないのだろうか。
 もはや憎しみ合うことしかできないんだろうか。
 一つのボールが、ぼくらをつなぐ事はないんだろうか。
「おまたせ」
 どこか凛とした強さを感じさせる美里さんの声がして、彼女がテーブルを挟んだ向かい側に座った。
 いつの間に入ってきたのか――ぼくは全然気が付かなかった。
 美里さんは眼鏡をかけていて、着こなしたスーツといい、いかにも仕事が出来そうな感じだった。
「今ちょっと忙しいの。チーム告知のためにフリーペーパーをね、配布しようと思ってるの。そうそうあなたへのインタビューも予定しているからよろしくね」
「やめたいんです」
「は?」
「パイレーツを退団したいんです」
 もう決めたことだった。
 美里さんは眼鏡の奥からぼくを睨んだ。そして短くため息をついた。
 
   5
 
 美里さんは小さなティーカップをゆっくり口元に運ぶと、ほんの二口、三口ほど口に含んで、ソーサーに戻した。
 そしてぼくに射るような視線を向けてくる。
 ぼくはその視線に耐えきれず、誤魔化すように美里さんをまねてティーカップを口に運んだけど、エスプレッソはとても苦くて、口をつけただけで一口も飲み込まずギブアップした。
「簡潔に言うわね。却下よ」
 美里さんは理由もなにも聞かず、ただ結論だけを告げた。
 ぼくが不満気な表情を浮かべたせいか、美里さんは短くため息をついて、ぼくに何かを言い聞かせるように話し始めた。
「いっとくけど部活とかじゃないのよ。『辞めたいです』『はい、そうですか』ってわけにはいかないの。リーグの開幕が差し迫っている今の時期から、あなたの代わりの選手をリストアップして、交渉してたんじゃ、とてもじゃないけど間に合わない。それにすでにあなたのネーム入りのレプリカユニフォームやグッズは販売してしまっているの。売れ残った分は廃棄処分しなくてはならないし、買ったファンからクレームがくるかもしれない。あなたの気分でどうこうできる次元の問題じゃないのよ」
 そんなことを言われたって、ぼくがプレーできる状態にないんじゃ意味がない。
 圭吾の悲鳴が未だに耳の奥でこだましつづけている。
 そしてあの何万という殺気を浴びてプレーしつづけるほど、ぼくは強くない。
 ただそれをうまく言葉にして伝えることが出来ない。
「この間のグランパス戦で怖じ気づいたの?」
 美里さんはつまらなさそうな顔で、ぼくのプライドをやすやすと傷つけてみせた。
 そうその通りだ。
 プロの世界に怖じ気づいた。
 だからぼくは素直に認めることで逃げようとした。
「はい」
 ぼくが短く答えると、美里さんはめんどくさそうに顔をしかめ、長い髪を乱雑にかき上げた。
「そういうね。子供じみたドラマはチーム内で解決して欲しいわ。まずはちゃんと監督と話し合ってから来なさい。それか専門のカウンセラーが配属されているはずだから、その人に相談することね。そんなことでいちいちわたしの仕事の邪魔をしないで」
 美里さんはそこまで言い切ると、これで話は終わりといわんばかりに立ち上がった。
 正直、あの散々なプレーをみせたあとだから、簡単に辞めさせてくれると思っていたぼくは、なんの反論もできず俯くしかなかった。
 たしかに子供だった。
 職員室を訪ねて顧問の先生に退部届けをだすような気持ちでここに来ていた。
 羞恥心がこみ上げてくる。
「あ、そうそう」
 美里さんが思い出したように持っていたスポーツ新聞の切り抜きを、テーブルの上に放り投げた。
「てっきりこの事で来たのかと思ったけど違ったみたいね。あの件に関してはチームの広報部の方からコメントを出しておいたから。あなたは何を聞かれても『チームを通してください』って言っておいてね。じゃ」
 美里さんはせわしなく出て行った。
 勢いよく閉められたドアの音が、ぼくの鼓膜を刺激する。
 ぼくは目の前に置かれた切り抜きを手にとってみた。
 そこにはあの忌まわしいシーンの写真が掲載されていた。
 ぼくの足が圭吾の足を破壊した瞬間。
 そしてそのシーンを克明に解説した記事。
 圭吾の怪我が深刻な状態だという報告。
 そして最後に、ぼくのコメントが載せられていた。
 
久留須:怪我をした壁凪選手にはホント申し訳ない気持ちです。でもあれは仕方のないこと。ぼくのプレーは正当なものだったし、事実カードも出てないでしょう。サッカーに怪我はつきものです。壁凪選手には早くよくなってもらいたいですね。
 
 なんだこれは?
 ぼくのコメント?
 一体、いつぼくがこんな事を言った?
 
『てっきりこの事で来たのかと思ったけど違ったみたいね。あの件に関してはチームの広報部の方からコメントを出しておいたから』 
 そういう事だったのか。
 あれはそういう意味だったんだ。
 偽造されたぼくの発言。
 だけどそれが偽物だって誰がわかる?
 もしこの記事を
 もしこれを圭吾が読んだりしたら
 
でもあれは仕方のないこと。ぼくのプレーは正当なものだったし、事実カードも出てないでしょう。サッカーに怪我はつきものです。
 
 今や選手生命の危機に立たされている圭吾がこんな記事を読んだら。
 ぼくは切り抜きをくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
 そして慌てて部屋を飛び出した。
 早く。
 早く。
 圭吾に会わなくちゃ。
 早く。
 
  6
 
 名古屋についた頃にはすっかり夜になっていた。
 おそらく面会時間はとっくに過ぎているだろう。
 それでも圭吾に会わなくちゃいけない。
 ぼくは駆け足で病院の自動ドアを通り抜けた。
 圭吾の病室はどこだろう?
 病院内は何か集団食中毒が起こったらしく、非常にあわただしい。ぼくの存在に気をとめる人もいない。
 エントランスホールで右往左往していると、誰かが近づいてきた。
 ガラの悪そうな二人だった。
 ニット帽をかぶった無精ひげの男がぼくの顔をジロジロと見ている。それから手に持っていたスポーツ新聞に視線を落とし、ニヤニヤと笑いながらぼくを指さした。
「やっぱこいつだ。こいつ」
 それから隣にいたNBAのシカゴブルズのレプリカを来た小男が、ずいっと前に出てきて、ぼくの胸をドンっと押した。
「おめぇーよ。平気な顔してよくこんな所に来られたな」
 小男はグラサンの奥で眉間にしわを寄せ、威嚇するようにぼくをにらみつけた。
 彼らが何について言っているのか予想がついた。
 ニット帽の男が持っているスポーツ新聞は、さっき美里さんに見せられたのと同じものだ。
 おそらくあの偽造された、ぼくのコメントを読んだのだろう。
 弁解すれば済む話だ。
 だけどぼくはそれをする気になれなかった。
 圭吾本人、圭吾の知り合い、または純粋なグランパスファンなら素直にあやまれただろう。
 だけど今目の前にいる連中は、サッカーに少しは興味あるものの、純粋なサッカーファンには思えなかった。
 おおかたスポーツ新聞を読んで、そこに載っているぼくの姿をみつけて、興味本位で因縁をつけてやろうと思っただけだろう。
 こんな連中相手に必死に弁解したり、謝ったりする気になれない。
 ぼくが何も言わずににらみ返すと、二人は苛立ちを露わにして、詰め寄ってきた。
「おいおい、他人の人生を台無しにしといてノーコメントかよ! 何様だテメー」
 お前らに何がわかる。
 圭吾の人生の何を知っている。
 ぼくが逆につかみかかろうとした時だった――唐突に二人が床にたたきつけられた。
「あー、お前ら、ちょっと目障り」
 一瞬、目の前が真っ暗になった。
 黒いダッフルコートを着た大きな背中に、視界を完全に遮られた。
 ぼくは長身な方だ。プロに入ってから自分より大きな人物に出会うことは多々あったが、ここまで圧倒される大きさを感じたのは初めてだ。
 頭にドクロ柄のバンダナを巻き、その上からさらに黒いカウボーイハットをかぶっている。そして格闘家のように太い首筋。そこにかけられた金のネックレス。
 なによりも全身から漂う威圧感。触れてもいないのに側にいるだけで押されているように感じる。
 男はしゃがみ込み床に転がった二人にほほえみかける。その剛気をみなぎらせた険相でほほえんでも、なごやかになるどころか、二人は完全に怖じ気づいてしまった。
「病院は騒ぐとこじゃねーだろ? 迷惑になる前に帰りな。それともこの場で入院できる体にしてもらいてーか?」
 二人慌てて頭を横にふり、腰砕けな状態のまま、逃げ去っていった。
 男はその姿を見送ると、にやけた顔のままふり返ってぼくの前に立つ。
 まるでハリウッド映画に出てくるマフィアみたいだ。
「よう久しぶり」
 男はまるで友達のようにぼくの肩を叩いた。あまりの力に思わず顔をしかめる。
「まあ久ぶりっつってもよ。話すのは初めてか」
 たしかにぼくはこの男を一度見たことがある。
 あの歓喜にわいた国立競技場。
 ぼくら東城高校を散々苦しめた存在。
 図師と同じ福岡清明のエース――
 そして日本ユース代表に君臨する195センチの長身ストライカー――
 十河大作。
 高校選手権最多得点の持ち主。決勝でもぼくらのチーム相手にハットトリックを決めてみせた。準決勝ではダブルハットトリックをも達成している。
 強靱な肉体と、それを操るしなやかな筋肉。そしてどん欲でどう猛なプレースタイル。
 初戦で豪快なゴールを微妙なオフサイドで取り消され、審判の胸ぐらにつかみかかり一発レッドをもらった性格。あれさえなければ、さらに得点を重ねていただろう。
 高校レベルで彼を八十分間止められるディフェンダーはいなかった。
 天使と悪魔の対決。
 高校選手権の決勝は、そう例えられた。
 観ているものをうっとりさせるような優雅なプレーをする圭吾を天使に例え、観ているものに絶望的なまでの強さを見せつける十河を悪魔に例えたキャッチコピー。的確な表現だったとぼくも思う。
 十河はニット帽の男が落としていった新聞を拾い上げ、手の甲でパンッと叩いた。
「オメーの言うとおりだ。ありゃ正当なプレーだぜ。ま、このコメントはどうせオメー自身のもんじゃねーだろうけどな」
 十河は新聞を投げ捨てた。
「マスコミなんか気にすんな。どうせ誰もがすぐに忘れちまうよ。あれは壁凪の野郎が貧弱だっただけだ。オメーに落ち度はない」
 まるで子供扱いするように十河はぼくの頭をポンポンと叩いた。
 心がジリジリする。
「ん? そうそう、その目。あの日もそんな目をしてたよな。今にも人を殺しそうな目。決勝で壁凪の野郎を睨んでた目だ」
 十河はニヤニヤと笑いぼくの顔をのぞき込む。
「もうファンタジスタなんてもんは時代遅れなんだ。今はフィジカルとここ」
 十河はバンダナの巻かれたこめかみ辺りを指で示す。
「頭良くて強い奴が勝つんだよ。ボール使って曲芸みてーなことやりてーならサーカス行けってんだ。なぁ。サーカスなら壁凪も怪我せずにすんだろうにな。ハハッ」
 圭吾を侮辱するこの男の態度。
 苛つく。
 イライラする。
「いい目をしてるじゃねーか。オメーの方が全然壁凪より見込みがあるぜ」
「そんな圭吾に俺もアンタも負けたんだけどな」
「まあ確かにな。チームは負けたさ。だがプロじゃそうはいかねぇ。アイツはプロでやってくにはフィジカルが貧弱すぎんだよ。これが限界なんだ。スター誕生って騒がれて終わり。まあ伝説のストライカーになる俺の高校タイトルを阻んだって事で満足してりゃいいんじゃねぇの?」
 不遜な態度。
 それを裏付ける実力と経歴。
「大体『サッカーが好きです』なんてほざいてる甘ちゃんがプロでやってけるわけねーんだよ。サッカーは戦争なんだ。試合中にヘラヘラ笑ってるお子ちゃまはとっとと家に帰ってゲームでもやってなって感じだよな」
 十河はぐいっとぼくの胸ぐらを掴んだ。そしてその鋭い視線でぼくの双眸をのぞき込む。まるでぼくの脳内をのぞき込むように。
「オメーもサッカーが嫌いで嫌いでたまんねーってクチだな。復讐と増悪にサッカーを利用してんだ。俺と同じ人種だ」
「誰がお前なんかと!」
「いずれわかるさ。楽しみにしてるぜ。開幕戦」
 十河は投げ捨てるようにぼくの胸ぐらから手を離す。ぼくは勢い余って病院の壁にたたきつけられた。鈍い痛みが背中に広がる。
「じゃあな……うわべだけのお見舞いで幼なじみ君が喜んでくれるといいな……ああ、それからユースの十番は俺が引き継ぐことになったって伝言しといてくれ」
 十河はにやけた顔のまま、背を向け立ち去っていった。
 開幕戦。
 パイレーツの初戦の相手。
 テンペスト島原。
 昨季、経営難から成績不振に陥りJ2落ちしたが、中国のIT企業をスポンサーに付け、主力流出を防いだ。その上、大型補強に成功し、一年でJ1復帰を目標と掲げるJ2優勝候補の最有力チーム。
 その中でも一番の補強だったといわれるのが十河大作である。
 若手が台頭すればJ1優勝争いも可能といわれるチームだ。
 十河大作。
 関係ない。
 やめるぼくにはなんの関係もない。
 あいつがなにを言おうと。
 ぼくにはもう関係ないんだ。
 だけど――
 圭吾を侮辱した言葉。
 それがぼくの心の奥かき乱す。
 あいつなんか――
 あいつなんか――
 圭吾の足下にも及ばないっ!
 それを思い知らせてやりたい。
 圭吾さえ万全なら……
 ぼくはやりきれない心を叩きつけるように、冷たい病院の壁を殴りつけた。
 激しい頭痛がして、痛みは感じなかった。


 
 
        つづく
     




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