XII−NO.12の戦士達−

第八節 赤く染まる
 
    第八節
 
   1
 
 スパイクを通してつたわってくる青々とした感触。
 春の陽をいっぱいにためこんだピッチの匂い。
 声援が震わせる空気。
 まばゆくぼくを差すような照明。
 思えば、ぼくはいつもピッチの外にいた。
 試合を見に来た時も、試合に出られなかった時も。
 体が軽い。
 足が地に着かない感じだ。
 こんなに人の多い中にあって、ぼくはとても独りを感じてしまう。
 圭悟。
 圭悟。
 圭悟。
 君はどこにいる?
 
 日江良から鋭いパスが前線に供給される。
 まるでシュートかと思うようなパスを圭悟は何事もなかったように、ぴたりと止める。
 ぼくが詰めにかかる前に、圭悟はツータッチでボールをサイドへ流した。
 サイドにボールが出ると、とてもやりにくい。
 サイドの選手を見ながら、背後を走る相手選手を把握するのは、とても困難だからだ。
 すっと安里が裏を狙って動き出す。
 ぼくはそのケアをするためにポジションを修正する。
 圭悟には岩井がマークについた。
 サイドからゆるやかなセンタリングが上げられる。ボールは放物線を描いて圭悟の足下へ。
 岩井は圭悟がトラップした間際を狙おうと、体重を圭悟の正面へと傾ける。
 圭悟はそのままダイレクトに踵でボールをトラップする。
 圭悟の踵に当たったボールが軽く跳ねる。
 岩井は完全に裏をかかれて、体勢を崩してしまった。
 くるりと反転する圭悟。そのまま回転しながらトラップしたのと反対の踵で落ちようとするボールをもう一度軽くリフティングする。圭悟が反転し終えた瞬間に、ボールはちょうど圭悟の前にストンと落ちた。
 観衆のため息と同時に、圭悟が岩井を置き去りにしてドリブルを始める。
 フライング・マルセイユ・ルーレット。
 圭悟の得意とするトラップだ。
 だけどそれは何度も見てきたプレーだった。
 二人で遊んだ河川敷、部活の練習中、ベンチから見た試合の中。ぼくは圭悟のトラップを何度も見てきた。
 だから圭悟がドリブルを始めた瞬間には、ぼくは圭悟の進路を防ぐカタチで立ちはだかっている。安里のカバーには神川がついていた。
 一瞬、圭悟と目が合う。
 来る。
 予感めいたものがした。
 何度も一対一をした仲だ。
 クセとか、確率とか、そういうものではなく。感覚が告げている。
 圭悟はぼくを抜きに来る。
 圭悟の右足アウトサイドが軽くボールに触れた、ボールが微かに右に動く。
 ぼくは上半身をボールの進行方向に傾けた。
 刹那、圭悟の右足がボールを追い越してインサイドで蹴り出す。ボールは進行方向を急速に左へと変えた。
 だけどぼくの一歩も同時にボールの進行方向へと出ていた。
 うまくいった。
 上半身の動きでフェイントにかかったフリができた。圭悟の右肩にぼくの左肩が触れる。
 ズシっとした感触。
 とてつもない強靱な感触。
 いつのまに圭悟は細身の体躯にこんな筋力を身につけていたのだろう? おもわず競り負けそうになるのをギリギリのところでこらえた。
 圭悟は仕方なくボールをサイドへと戻した。
 サイドにでたボールに図師がプレスをかけ、サイドの選手は仕方なくディフェンスラインへと戻す。
 一度目はなんとか防げた。
 圭悟がボールを受けるため自陣の方へと戻っていく。
 ぼくはその背中を目で追いながら、周囲を見渡した。いまのところディフェンスの陣形に乱れはない。
 大丈夫だ。
 なんとかやれる。
 押さえられる。
 圭悟と互角に渡り合えたんだ!
 喜びとも興奮ともつかない感情がぼくの中に沸き上がってくる。
 
 いつからか離れてしまった、ぼくと圭悟の距離。
 それは途方もなく遠く。
 際限なく遠く。
 何をしても追いつけないように思えた。
 つまり自分が限界なんだと。
 空に手を伸ばすバカらしさに気づいてしまった。
 新しい目標を持とうともした。
 自分なりのサッカーでの目標をつくろうとした。
 けれども目の前で圭悟の影がちらついた。
 廊下で、教室で、部室で、体育館で、グラウンドで、圭悟の影がいつも視界の端でぼくを苛つかせた。
 約束が束縛になり、キリキリとぼくの胸を締め付け続けた。
「一緒にあのピッチの上に立とう」
 その約束を果たそうと、進み続ける圭悟。
 その背中すら見えなくなってしまったぼく。
 ピッチがとても遠くみえた。
 別世界のようにも思えた。
 まるで映画か何かをみているかのように、ぼくは圭悟のプレーをただ見ているだけだった。
 三年になってクラスも別になり、圭悟もユースや選抜などで忙しくなり、次第に疎遠になっていった。
 きっとこのままぼくらは別々の道を歩むだろう。
 お互い約束など、子供の頃の戯れ言だと記憶の隅に追いやってしまうだろうと。
 苦しかった。
 怖かった。
 泣きたかった。
 憎かった。
 殺したかった。
 殺されたかった。
 消えてしまいたかった。
 忘れてしまいたかった。
 そして
 圭悟とプレーしたかった。
 手を伸ばせば届く場所に圭悟がいる。
 ぼくたちは同じピッチに立てているんだ!  やっと見つけた。
 ぼくはこの豊田スタジアムにおいて、壁凪圭悟を見つけることができたんだ!
 安里が右サイドへ流れる。神川弟がその動きにつられた
。  圭悟が空いたスペースに飛び込んでくる。ぼくはそのスペースを埋めるように動き出す。
 安里がセンタリングを上げる。
 さすがに元ウィンガー出身の選手らしく、センタリングの技術も正確だ。ピタリと圭悟の元へボールは落ちていく。
 圭悟が膝でボールをトラップする。
 クンっとボールが高くはね上がった。
 一見トラップミスしたかのようなボールはぼくの頭上を越えて背後へ。圭悟がぼくと入れ替わるように、ボールの落下地点へ体を入れる。
 大丈夫。
 うしろには岩井がカバーしている筈だ。
 振り返ったぼくと岩井で圭悟を挟み撃ちにしてボールを奪えばいい。
 ぼくは勢いよく反転した。
 岩井と目があった。
 圭悟は?
 すっと足の間を何かがすり抜けた。
 視界の端に人の影が映る。
 慌てて上半身だけ動かしてうしろを見ると、フリーになった圭悟がボールを受けようとしているところだった。
 やられた。  頭上を抜かれたあと、ぼくが振り返る瞬間――ボールから目を離した瞬間を狙って股下を抜かれたんだ。
 頭上と股下。上下に二度抜かれた。
 必死に足を伸ばそうとするが、とても間に合わない。
 圭悟の右足がボールをとらえる。
 フリーで放たれたシュートはキーパーが一歩も動けないほど綺麗にゴールの右隅を捉えた。
 歓声が耳を裂く。
 赤い奔流がスタジアムを揺るがす。
 両手を上げてチームメイトの元へ向かっていく圭悟。
 呆然と立ちつくすパイレーツのイレブン。
 1−1と表示される伝言板と、歓声に混じって聞える場内アナウンス。
 ぼくはただ立ちつくしたまま、それらの光景を見ていた。
 追いついたと思った後ろ姿は、一瞬にして消え去った。
 あの河川敷で一緒にボールを追いかけた頃、レギュラー争いをしていた頃、ぼくの知っている圭悟とは別人のような動きだった。
 プロのスピード?
 いや、高校選手権で優勝した時よりも、はるかに上手くなっている。肉体も技術も研ぎ澄まされているんだ。
 すごいや。
 ホントにすごいよ、圭悟。
 もう笑うしかできない。
 あさはかな自分を。
 奢った自分を。
 愚かな自分を。
 
 くやしい。
 
 くやしい。
 
 くやしい。
 
 なんでこんな不条理なんだ。
 なんでこんなに上手くいかないんだ。
 この世界中の全てがぼくの敵で、ぼくに牙を向いてきていて、甘い言葉で誘惑しては裏切ったり、必死に努力する姿をあざ笑ったり。
 もがいても、もがいても、どんどん無様になっていく一方で。
 苦しくて。
 くやしくて。
 なのに何も出来なくて。
 どうしたらいいかもわからないで。
 逃げ出すことさえ許されなくて。
 もう何も考えたくない。
 もう何もしたくない。
 
 それでも笛は鳴る。
 ボールは蹴り出される。
 選手達は走る。
「久留須!」
 誰かが叫んだ?
 誰だ?
 わからないし。
 どうでもいい。
 圭悟が見えた。
 躍動する圭悟の体。
 ボールを生き物のように扱う圭悟の両足。
 あふれ出す喜び。
 サッカーをやってて楽しくてしょうがないという喜び。
 なあ、圭悟。
 ぼくはサッカーやってても、全然面白くないんだ。
 つまらないよ。
 それどころか苦しいことばかりで。
 圭悟。
 聞いてるのか?
 
 圭悟がワンフェイントでぼくをかわす。
 圭悟の頬が笑っていた。
 
 楽しそうだな、お前は。
 うらやましいよ。
 
 ゴールへ向かっていく圭悟。
 
 どこへいくんだよ。
 戻って来いよ!
 また一緒にサッカーやろうよ!
 ぼくを置いてかないで!
 ぼくを置いてかないで!
 圭悟!
 待ってよ!
 
 祈りにも似た気持ちで右足を伸ばした。
 つま先がボールに触れる。
 世界がつながった気がした。
 たった一筋の光が差した気がした。
 そして
 ぼくの鼓膜に――
 
 グシャリと鈍い音が響き渡った。
 
 ――そのあとは空を裂くような悲鳴。
 
   2
 
 グランパス観戦の終わったあとの帰り道。
 豊田市駅から地下鉄鶴舞線直通の電車の中で、ぼくと圭悟はいつも試合の話で盛り上がった。
 家に近づくほど、グランパスのユニフォームを着た人が少なくなり、駅を降りた頃にはぼくと圭悟だけだった。
 そんな時はいつも寂しさを味わった。
 いい試合であればあるほど、興奮した試合であればあるほど、じんわりと寂しさがこみ上げてきた。
「早くサッカーやりたいな」
 圭悟はぼくに言う。
 きっと彼も今胸の中にある感動や興奮を消したくなかったのだろう。
 圭悟とは、いつもサッカーの話ばかりだった。
 クラスや部活でも、アイドルの話やクラスメイトの女の子の話題で持ちきりだったけど、ぼくと圭悟はそういうサッカー以外の会話をあまりしたことがない。
 もしサッカーがなかったら、ぼくたちはつながっていられただろうか?
 ぼくは一度、サッカーをあきらめようとした。
 高校で壁にぶち当たり、サッカーをこれでもかというほど憎んだ。
 だけど圭悟は、常にサッカーとともにあった。
 ピッチの上こそが彼の居場所とも思えた。
 
「圭悟」
 ぼくが喉の奥から絞り出したうめき声のようなものは、会場を包み込んだブーイングや喧噪に飲み込まれた。
 混乱は続いていた。
 掴みかかってくる赤いユニフォームの選手。その間に割ってはいる黒いユニフォームの選手。
 黄色いシャツをきた年配の男性がぼくに指を突きつけ、怒ったような表情でなにか言っている。
 だけどぼくの五感はすべて一点に向けられていた。
 白い担架に乗せられて、ピッチ外へ運ばれていく、その苦悶を浮かべた表情へと。
 圭悟。
 どこいくんだよ。
 お前の居場所はここだろ?
 このピッチの上だろ?
「始まるぞ。しっかりしろ」
 小山君の声が聞えた。
 ボールが動く。
 押し寄せてくるグランパスの選手たち。
 怒りに満ちた勢いを感じる。
 忘れろ。
 試合に集中するんだ。
 だけどピッチの外に運ばれた圭悟が気になってしかたがない。
 ボールが、選手が目に入らない。
 岩井が安里に激しいタックルを喰らわせる。
 高らかに笛が鳴らされる。
 ファウル?
 いや、ハーフタイムだ。
 ぼくは慌てて圭悟を探す。しかしフィールドのどこにも圭悟の姿はない。
 ほかの選手もどんどんと引き上げていく。
 
 熱気とざわめきがドレッシングルームを支配する。
 息苦しい。
 静かにしてくれ。
 頭がぐらぐらするんだ。
 気にしてはいけない。
 気になってしょうがない。
 出て行って静かなところで心を落ち着けたいのに。
 誰かがぼくの肩に触れて何かを囁きかけてきた。
 うるさい。
 一人にしてくれ。
 耳の置くに残る、あの鈍い響き。
 圭悟の苦痛に歪んだ表情。
 あんな顔をした圭悟を始めて見た。
 ピッチにへたりこんだまま起きあがれない圭悟なんて。
 バシン!
 両頬に熱い衝撃が走る。
 固い手のひらからぼくの頬に伝わる熱さ。 
 目の前に神楽監督の双眸がある。
 射るような視線でぼくを見ている。
「聞えるか?」
 低い声だったが、はっきりとぼくの耳には届いた。
「あれはいいプレーだった。ボールに触れたのはお前が先だ。相手が抜いたと思って注意を欠いただけだ。現に主審もカードは出さなかった」
 ぼくの両頬にあてられた手に力がこもる。
「ピッチの上では何が起こっても不思議はない。過去に引きずられるな、先を見るんだ」
 大丈夫。
 やれるさ。
 ぼくはなんとか頷く。
 神楽監督は、不安とも納得したともつかない曖昧な表情を浮かべ、ぼくの頬から手を離した。
 両頬に熱さだけがのこっている。
 重く、熱い息をゆっくり吐き出す。
 震える指先を強くにぎりこんだ。
 
 先へ進むしかないんだ。
 ぼくは戦い続けることを決めた。
 長い廊下を進み、光差し込むピッチへ。
 階段を昇ってフィールドに踏み込んだ瞬間、全身に打ち付けるような爆音が鳴り響いた。
 三百六十度、ぼくを包み込むようにブーイングが響く。
 見渡すとスタジアム中の観客がぼくに向かって怒りの表情を向け、口々に罵声を上げている。
 自分達のヒーローを傷つけられた怒り。
 スタジアムを包む一体感が、ぼくに対する敵意を現わしている。
 空が圧迫するように低く、ぼくを押しつぶしそうにも感じる。
 なんて重い空気だろう。
 呼吸するのも楽じゃない。
 副審が高らかに選手交代ボードを上げる。
 長身の黒人選手が横に立っている。
 点灯する10の数字。それが消えて18。
 壁凪圭悟に代わってホルセ・アンソニー・レゼスマ。
 さらに高まる歓声。そしてぼくに対するブーイング。
 ポジションに着くとすぐ真後ろにグランパスサポーターの顔が見える。
 怒り狂った表情。
 背中から突き刺すような視線。
 いい加減にしてくれ。
 後半が始まる。
 パイレーツのキックオフからグランパスのプレスをうけてボールが戻される。
 神川弟が安里のプレッシャーを受け、ぼくにパスを出す。
 ボールをトラップした瞬間。
 会場から地響きするようなブーイングが沸き上がる。
 うるさい。
 静かにしろ!
 あ。
 蹴り出したパスが別府に届く前にレゼスマにカットされる。
 そのままレゼスマがスピードにのったドリブルを始めた。
 対峙するのはぼく一人。
 自分のミスから招いたピンチだ。ファウルしてでも止める。
 レゼスマは一直線にドリブルし、二、三回フェイントを入れた後、ぼくの横を抜きに来た。
 スピードはあったが単調なドリブルだった。
 とれる。
 足を伸ばそうとした瞬間。
 あの音が脳裏をよぎった。
 圭悟をピッチ外へ追いやったあの音。
 足が動かなくなる。
 気がつくとレゼスマはキーパーもかわし、無人のゴールを軽々と陥れていた。
 歓声や歓喜、落胆。さまざまなものが渦巻くピッチの上で、ぼくはたったひとり立ちつくした。
 副審がぼくの交代をつげるボードを掲げる。
 ピッチを出るぼくに向かって投げかけられる罵声、そしてどこからともなく飛んできた紙コップのクズ。
 正木さんがぼくの背中を軽く叩いてピッチへと入っていく。
 神楽監督は黙ったまま腕組みをしてピッチを見ていた。
 驚くほどおだやかな気持ちだった。
 ピッチを後にすることで得た安心感。
 ふっと息を吐くと同時に、疲れと吐き気がこみ上げてくる。
 ぼくは俯いたまま、一人、フィールドから姿を消した。
  
   3
 
 試合終了の瞬間、ぼくはトイレにいた。
 胃の中のものをすべて吐き出しても、体の中に異物感を感じる。
 結局、最後までピッチに立っていることさえできなかった。
 狂気と怒りが会場を震わし、ぼくへと降り注いだ。
 プロは――
 プロはあんな中でプレーしているんだろうか。
 
 名古屋グランパス 4−1 台場パイレーツ
  
 得点者 名古屋:壁凪(31分)、レゼスマ(51分)、安里(78、82分)
       台場:久留須(11分)
 
 病院の前を埋め尽くすマスコミ。そして遠巻きに見守る赤いユニフォームを着たグランパスサポーター達。
 ぼくは私服姿のまま、立ちつくし、病院を見上げた。
 ふいに記者の一人が携帯電話を片手に慌てて走っていく。
「壁凪選手、靱帯断裂だ。明日のトップを押さえてくれ」
 靱帯断裂。
 ぼくは青ざめた。
 そして慌てて病院に向かって駆け出そうとする。刹那、肩を強い力で掴まれて引き戻される。
「どこへ行くつもりだ」
 聞き慣れた声だった。
 三年間、毎日のように聞いた声。ほとんどが怒鳴り声だった気もする。
 振り返ると、麻生監督はあいかわらずのしかめっ面でぼくを睨んでいた。
「面会謝絶だ。それにあんな中に飛び出してみろ。サポーターに袋だたきにされるぞ」
「先生……」
 ぼくは思わずその場に崩れ落ちた。
 麻生監督がぼくの腕を掴んで引き起こす。
「大丈夫か」
 大丈夫なわけがない。
 もうどうしていいかわからなかった。
 全て消してくれ。
 この存在も、この世界も。
 何もかも忘れさせて欲しかった。
「逃げるなよ。久留須。逃げるともっと辛くなるぞ」
 全身の力をふりしぼってなんとか顔をあげるぼくを、麻生監督はベンチへと連れていった。
 
「俺も昔同じ経験をした」
 麻生監督はぼくに缶のホットココアを差しだして言った。
 熱い。
 呆然とした意識の中で、その缶の熱さだけがリアルに感じられた。
「プロだった頃に、ある選手の選手生命を奪ったんだ」
 重い重い一言だった。
「すごい天才的な選手でな、今の壁凪……いやJリーグ発足間もない当時の彼への期待はすごいものだったよ。ただプライベートで怪我をしてな。それから怪我がちになってしまった」
 麻生監督は懐かしむような、悲しむような、なんともいえない表情を浮かべる。彼のこんな表情をみたのは初めてだった。
「ある日、代表合宿で俺があいつにタックルを喰らわせた。あいつは怪我を再発させた。俺はさんざんマスコミに叩かれたよ。そのうえ代表落ちして、ノイローゼ気味にすらなった。俺はあいつに言ったよ『そんなガラスみたいな膝でプロ生活を続けるのは無理だ。とっとと引退しちまえ!』。代表落ちした責任を全部あいつのせいにしちまったんだ。ひどいショックを受けてた。あの時のあいつの顔は忘れられない。そしてその日、あいつは事故って二度とサッカーの出来ない体になった。さらにその事故で奥さんを亡くした」
 痛かった。
 まるで自分のことのように痛かった。
 なのに麻生監督はどうしてこんなに穏やかでいられるんだろう?
「そのままあいつも俺も引退したよ。もともといい歳だったし、今度の代表合宿が最後のチャンスだと思ってたからな。それにサッカーが怖くなってたんだ。もうサッカーと関わりたくないと思った」
 麻生監督は缶コーヒーを飲み干し立ち上がる。
 ぼくは黙ってその後ろ姿をみていた。
 プロの世界を甘く見るな。
 パイレーツ入りを決めたあと、職員室で麻生監督がぼくにいった言葉。
 おきまりの言葉。
 使い古された文句。
 当たり前の言葉だと思っていたことが、いまはとても重い意味をもった言葉に感じられる。
「その怪我した選手はその後どうしたんですか?」
「それは本人に聞いてみるんだな」
 麻生監督は口元を微かにほころばせて笑った。
「俺はお前のプロ入りに反対だった。お前には厳しすぎると思った。いつか耐えきれなくて壊れてしまうと。だけどあいつが監督だと知って考えを変えた。不思議な巡り合わせを感じたよ」
「まさか神楽監督?」
「結局、俺もアイツもサッカーに苦しめられた……それでもこうしてサッカーと関わり続けている。サッカーなしではいられなかったんだ」
 麻生監督は一息ついて、缶コーヒーの缶を空き缶入れに捨てる。
 振り返った時、麻生監督は厳しい指導者の目に戻っていた。
 背筋に緊張感が走る。
「久留須。プロを続けていくかどうかはお前が決めればいい。ただひとつ――サッカーを嫌いになるなよ」
 ぼくはたまらず泣き出してしまった。
 いろんなものが渦巻いてて、何が何だかわからない。
 心が熱く、熱く、真っ赤に染まって燃えているようだった。
 麻生監督は、ただ黙って側にいてくれた。
  
          つづく
           



次へ
前へ

投票がてらランキングサイトへ戻る
タイトルに戻る