XII−NO.12の戦士達−

第七節
 
       第七節 約束
 
   1
 
 バスの座席に座り込んだ瞬間、体中の疲労感が爆発したように広がり、節々の筋肉が軽く悲鳴を上げた。
 ここ五日間、徹底しておこなわれたフィジカルトレーニング。そこで地獄をみた気がした。クールダウンせずに座り込んだ時は、ホントに一瞬気を失いかけた。
 午前中は雑誌にローカルテレビにと宣伝活動。筋肉痛を抱えたままにこやかに笑うのは本当に苦痛だった。平然とやってのける小山君達に尊敬の念を抱いた。
 だが忙しく苦痛に満ちた間は、悶々とした様々な想いが消えていた。それだけは救いだったと思う。
 いまからパイレーツは親善試合のため名古屋に向かう。
 たった一週間での帰郷。
 もちろん懐かしさを感じることもない。
 バスの中には運転手と自分だけ。もうとっくに集合時刻は過ぎているというのに。
 おにぎりみたいな体型をした女性の運転手が、共食いするようにおにぎりを食べている。
 ぼくが仮眠をとろうとリクライニングを倒した頃、パラパラと選手達が乗り込んできた。
 ふと座席が軋むのを感じる。隣に誰か座ったんだ。
 ぼくは視線だけ移動させて隣の席に座った人物を一瞥する。
 長身にサラサラの黒髪。切れ長の目。
 アイツだ。
 髪型が崩れるからと、ぼくのヘディングをスルーしやがったヤツ。
「あ、ここ良かったですか?」
 申し訳なさそうに頭を下げる。
 グラウンドの時と随分態度が違うんだな、とぼくは拍子抜けした。
「あ、ガム食べます?」
 彼はにこやかにミント系のガムをさしだしてくる。
「いや、いいっす」
「そうそう。初めましてですよね。ぼく、神川功介っていいます。よろしくお願いします」
「はじめまして?」
 確かに挨拶したのは始めてだけど……あのあとだって何回か顔を合わせた。だけどその度に無視されてきたし、ぼくも無視してきた。
 それがいまになってこの態度はなんだろう?
 何か裏があるのか?
「いや、別にはじめてってわけじゃないっすけど……」
「いや、はじめてですよ。ずっとお婆ちゃんの葬式でチームを離れてたし」
「はい?」
 何をいってるんだ? じゃあ、俺のセンタリングをスルーしたのは幽体離脱したお前の霊魂か?
「ああ。多分、兄と間違えてるんじゃないですか?」
「へ?」
「ほら、一番前の座席に座ってる」
 と、功介の指さす先を見る。
 一番前の座席。確かにそこに長身の男がいた。
 ニット帽を被り、サングラスをかけ、大きめの音でウォークマンを聴き、クチャクチャとガムを噛みながら、長い足を組んだ不遜な態度。横に座っている関東が、その組まれた足先を避けるように縮こまっている。
「一番前の席は成行兄さんの指定席だから。あそこじゃないと酔うんだってさ」
 と功介は苦笑を浮かべる。
 通路を挟んだ反対側には神楽監督が座っている。こちらも着崩したアルマーニのジャケット。赤いシャツの開いた胸元からのぞく金のネックレス。ピアスにくわえタバコ。
 正面からバスを観た人間は、ヤクザの慰安旅行かなにかと勘違いするんじゃないかって迫力だ。
 それにしても高い兄弟だ。
 図師も高いと思ったけど、この二人も高い。多分スラッと伸びた背筋と、サッカー選手らしからぬ体の線の細さがそれを強調してるんだろうけど。
 兄弟だよな……。
「さっきお婆ちゃんの葬式っていったけど……」
「うん。ホントにこないだまですごく元気だったのに」
「なんで兄貴はいるの?」
 あきらかにうり二つの双子なのに、腹違いということもあるまい。
「まあ……成行兄さんは面倒くさがりだから」
 いや、面倒くさがりって。
 お婆ちゃんだよ。お婆ちゃん。
 おい。
 そうこうしているうちに、一時間遅れで岩井やら福田やらが談笑して乗り込んできた。そして定位置である一番後ろの座る。
 女性運転手はもう何個目か分からないおにぎりを二口で食べ終えると、ようやくエンジンをかけた。
 
 目をあけると見慣れたビル群が飛び込んできた。
 見たことあると確証できるわけではないが、なんとなくここが名古屋市であることはわかる。
 母方の両親の元へ帰省して戻ってくる時や、家族で郊外に出かけた時、いつも通っている道だ。
 もうすぐぼくの家も近い。
 国道四十一号線沿いを走っていくバス。
 多分、あのへんに圭悟の家がある。そして圭悟と共にボールを追いかけた河川敷の上を、バスが通り抜けていく。
 圭悟は今頃どうしているだろう?
 豊田のグラウンドで練習しているんだろうか?
 当然明日の試合には出てくるんだろうなぁ。
 スタメンかどうかはわからないけど、初の公式戦だし。交代枠も八人まである。もしかしたらぼくにチャンスが訪れるかもしれない。
 
「どうなの? チームの人達とは仲良くやれてるの?」
 ホテルの部屋から名古屋の夜景を見下ろす。
「まだ一週間なんだからわかんないよ。これからだよ」
「なんか困ったことはないの? ご飯ちゃんと食べてる?」
 ぼくの家もこの無数にひろがる光のひとつを形成している。そしてその小さな小さな一粒から、母と僕は携帯を通して繋がっている。
「だから大丈夫だって」
「明日、父さんも試合見に行くから」
 それはちょっと以外だった。
 中学の頃は一度も見に来なかった両親。少しむず痒い感じがした。
「いいよ。出られるかどうかもわかんないし」
「それでも顔ぐらいはみられるんでしょ」
「まだ一週間だろ」
「そんなこと言ったって、あんた。次はいつになるかわからないんだから」
「はいはい。じゃあ明日のためにもう寝るよ」
「三汰、頑張りなよ」
「……うん」
 電話を切ってベットに放り投げる。それから再び夜景を見た。
 見慣れた街。
 ほんの一週間前まで、この目に映る範囲がぼくの世界の全てだった。
 そして街を飛び出した。
 何か変わったんだろうか?
 ぼくは変われたんだろうか?
 少し前までは、この街でぼくは一生を終えると思っていた。
 どこかの大学にいって、近場の企業に就職して、誰かと結婚して、子供をスタジアムに連れていく。
 そして幼い子供に「あれが父ちゃんの親友だ」と圭悟を紹介したりする。
 そこにはベテランとなった圭悟がいて、少し衰えたけど、いまと変わらず光を放ち続けている。
 多分、ぼくがサッカーに関われるのはそれが限界だと。
 だけどいまは、その光の中にぼくも入っていこうとしている。
 ホントに。
 これは現実なんだろうか?
 ぼくはプロサッカー選手なんだろうか?
 まったくというほど自覚がない。
 だって何も変わった気がしない。
 たしかに家を出て、パイレーツの一員になった訳だけど。
 なんだかこの街にいた時と何も変わっていない気がする。
 明日。
 明日もし一分でいいから試合に出られたなら。
 ぼくの中で何かが変わるんだろうか?
 指先がブルブルと震えた。
 触らなくても胸が高鳴っているのがわかる。
 この高ぶり。
 変な感覚だ。
 すごく不安なのに、すごく楽しい気がする。
 眠らなきゃいけない。だけど眠れない。
 明日――
 ぼくはどうなってしまうんだろう?

   2

   支給されたスーツを身に纏い、スタジアム内の通路を歩く。
 キックオフまで、あと二時間。
 そろそろドレッシングルームに戻らないと。
「久留須!」
 誰かがぼくを呼んだ。
 振り返ると、スーツ姿に茶髪の男が立っていた。
「池野目?」
「おう、久しぶりだな」
 池野目龍太――高校時代のチームメイトだ。
 彼もまた僕と同じく三年間レギュラーの座を射止められなかった。
 そういう選手は大体二年の半ばで部活を辞めてしまう。受験に専念するためと。
 だが根っからレギュラーを目指すというより、子供の頃から体の弱かった池野目は、大好きなサッカーをしながら体を鍛えようとした。
 入団当時の池野目はほんとにヒョロヒョロしてて、とても三年間耐え続けるのは無理だろうと思った。
 それでも池野目は本当にサッカーが好きで、チームの雑用的な仕事を進んでこなしていた。彼が入院して一週間ほどチームを離れた時に、チームメイトの多くがはじめて彼の存在価値に驚かされた。
 部室は散らかる一方だし、備品の在処を知ってる者はいないし、マネージャーのほとんどがスコアボードの付け方すら知らなかった。
「何やってんだよ。こんな所で」
 ぼくが驚いた顔をみせたことに、池野目はしてやったりという表情を浮かべて近づいてきた。
「バイトだよ。スタジアムの案内。高校時代からちょくちょくバイトしてたんだ。そんなにキツくないし、登録制だから出勤日を選べたしね……そうそうさっき壁凪にも会ってきたよ。あいつも元気そうだった」
「そっか」
 圭悟はやはりスタメンなんだろうか?
 ぼくはといえば……
 まあいいや。あいつはあいつ。ぼくはぼく。
 試合が終わったら握手して、ユニフォームでも交換しよう。
 わだかもりも、嫉妬も、くやしさも、それで全て終わりにしよう。
「それから麻生監督も来てるみたい」
「――!」
 一瞬にして、心が凍りついた。
 テクニカルエリアに立ち、声を張り上げる背中。それから振り返るぼくを一瞥した視線。
 一瞬目があったが、その目にきっとぼくは映っていなかったに違いない。彼の目に映ったのはベンチに座る誰かであって、久留須三汰という人間ではない。
 三年間、麻生監督の中でぼくという存在は消されていた。
「なんか優勝校の監督として解説として招かれたみたい。ほら、壁凪の関係で。彼はもう一躍日本中が注目する選手だからね。高校時代とかのエピソードを訊かれるんじゃない?」
 復讐心めいたものが沸いてくる。
 麻生監督の前で、圭悟をねじ伏せたら。
 もうぼくを無視できなくなる。
 それとも手のひらを返したように「あの子も私が指導したんですよ」と解説するだろうか?
 それでもし彼がぼくを賞賛しに現れたら「あんたに教わったのはベンチの座り方だけです。おかげで長時間のバス移動も苦じゃなくなりました」とでも皮肉を言ってやろうか?
 そしたら多くの報道陣の前で、彼に恥をかかせてやれるかもしれない。
 だがその考えをすぐに打ち消した。
 第一、ぼくがプレーできるなんて保証はない。
 プレーできたとしても、圭悟を打ち負かすことがどんなに簡単じゃないかは、ぼくが一番知っている。
「ごめん。そろそろ戻らないと」
「ああそうだね。じゃあ、試合頑張って」
 ぼくは手を振って返した。
 
 ドレッシングルームの扉の前に立つと、中がひどくざわついていることに気づく。
 何かトラブルでもあったんだろうか?
 ぼくはできるだけ静かにドアをあけて、中を覗き込んだ。
 一瞬にして訪れる静謐。
 そしてぼくを見る選手達の目。
 すべての視線がぼくに注がれていた。
 その無言の圧力に、ぼくは少したじろく。
 何が起きたというんだ。
「随分長いトイレだったな、久留須。もうスタメンの発表を始めているところだ」
 神楽監督がタバコの火を掲げて告げる。
「監督。本気でコイツを使う気ですか?」
 岩井がぼくを指さし神楽監督に疑問を投げかける。
「ああ」
 使う?
 ぼくを?
 慌ててスタメンの書かれたホワイトボードに視線を移す。
 
GK 芝宮
DF 岩井、久留須、神川(功)
MF 別府、関東、図師、福田
FW 小山、神川(成)、レナルディーニョ
 
 確かにぼくの名前だ。
 しかもディフェンダー登録で。
 ポジションは3−4−3のスリーバックの中央。
 そうだ。こないだの練習でやったポジションだ。
 ぼくは混乱していた。
 どういうつもりだ?
 なんでぼくがスタメン――しかもレギュラーなんだ?
「いいか」
 神楽監督がタバコの煙と共に、低く響く声を吐き出す。ドレッシングルーム全体に緊張が行き渡る。
「スタメンに選ばれた連中はチャンスだと思うな。ピンチだと思え。お前らごときのレベルの選手が観衆の前にさらされるんだ。お前らの中にはチャンスは何度も訪れると思っている者もいるかもしれない。これがダメでも次があると。いいか? 次なんてねーよ! このチャンスはこれ一度限りだ! 同じチャンスは二度と巡ってこない。ピンチだと思え! 命をかけてやれ!」
 チャンスは一度しかない。
 そう。
 あの日、ぼくはそのチャンスを逃した。
 高校時代の全てを決めた日。
 もう二度とあの高校時代をやり直すことはかなわないんだ。
 それからぼくと圭悟の間に、決定的な差が生まれた。
「いいか! これがスタートだ。スタメンに選ばれたことで全て満足したと思っているやつはすぐに辞退しろ! そしてとっととユニフォームを脱いで出て行け! 別に俺は止めやしない。正しい選択だ。プロになったことを誇りにして生きていけばいい。ここから先に待っているのは、地獄だ。苦しみだ。一部のスター選手が味わえる華やかさなんてこれっぽちもねえ! 死ぬまで走り続ける覚悟があるやつはとどまれ。今なら辞退することを許可する。十秒待ってやろう……」
 神楽監督はタバコをくわえ、これ見よがしに腕時計に視線を落とす。
 静寂の中、選手たちの息づかいだけが響く。
 じっと監督を見る岩井。
 腕組みをし目をとじる小山君。
 緊張した表情で自分の指先を見つめる関東。
 壁にかけられた時計を眺めながら余裕ぶったフリをする図師。
 長いような、短いような十秒間の間。
 ぼくは覚悟を決めた。
 もう引き返せない。
 神楽監督はああいったけど、すでにぼくらは引き返せないところまで来ているんだ。
 ぼくが視線を上げた瞬間。
「十秒だ」
 神楽監督がタバコをくわえた口元を歪めた。
「いいだろう……ついてこい。俺と一緒にフィールドで死のう」
 誰かが鬨の声を上げた。
 多分、キャプテンの別府だったと思う。
 すぐに喧噪がドレッシングルームを包み込み、それも定かではなくなってしまったけど。
 ぼくはその騒ぎの中で、自分の頬を両手でしっかりと打ち付けた。
 さあ、行こう。
 ピッチの上へ。     
 
  
   3
 
 いつも思い出すのは鉄塔の先、遥かなる青空。
 週末の空の下。
 矢作川の上を乗って届く風が、河川敷の芝生をそよがせる。その上をボールが風に流されるように転がっていく。
 幼い圭悟が四肢を躍動させ、ドリブルする。
 幼いぼくがその背中を追いかける。
 レギュラーだとか、ポジションだとか、点数だとか、ゴールだとか、勝敗だとか――何も考えずに、二人で一つのボールを追いかけた。
 豊田大橋の上を、赤いレプリカユニフォームの一団が通り過ぎていく。
 そのあとを追いかけるように、ぼく達もボールを抱えて走り出す。
 芝生を蹴って、青空を目指すように河川敷の坂を駆け上がり、鉄塔の突き出したスタジアムの大きさを目の当たりにし、そして十番ゲート――ピクシーゲートをくぐってスタジアムへ。
 すぐ目の前に輝くピッチがあった。
 そこでぼくらは興奮し、涙し、喜びに沸いた。
 そして試合終了後、幼い圭悟は興奮に頬を赤らめて約束の言葉を口にする。
「いつか二人でこのピッチの上に立とうな」
 幼いぼくは黙って頷く。
 
「すいません。ちょっと……」
 気がつくとぼくは踵を返して走り出していた。
 何人かのチームメイトが声をかけてくる。
「おい! もうすぐ入場だぞ!」
「どうしたハンサム。怖じ気づいたか」
 ふと、予感がした。
 きっと待ってる。
 
 スタジアムの外へ飛び出す。
 もう自分の家のように慣れ親しんだスタジアムだ。どこから出れば、どこへ繋がるかは手に取るようにわかる。
 きっと彼もそうだろう。
 ぼくは河川敷を見下ろし、そこに出来た人だかりの中央にいる人物に笑いかけた。
 サイン攻めにあいながら、彼もまたぼくに気づいたらしく、手を振る。
 春の陽気が心地よかった。
 その中をぼくは歩き、河川敷の下にいる彼の元へ近づいていった。
 彼――壁凪圭悟はトレーニングジャージのポケットに手を突っ込んだまま、小走りにぼくの方へ向かってきた。
「よう」
 笑顔をみせる圭悟。
「なんだよ。先発じゃねーのかよ」
「ああ……でも監督に、出番は必ずやるっていわれてる……それまで交代させられんなよ」
 圭悟はそういいながら、ぼくの胸元にこぶしを押しつけた。
「お前になんか、何も仕事させてやんねーよ」
「悪いけど華々しいデビューを飾らせてもらうからな」
 お互いに苦笑する。
 そして言葉につまる。
 遠くで誰かが圭悟を指さしている。
 ホントに変わったよな。
 むかしは細くて、スポーツの匂いなんて全然しない感じだったのに、今では体全体が大きくなって引き締まり、立ち姿にも威圧感のようなものがある。
 そして大人びた穏やかな表情。いくつもの国際舞台を乗り越えて、プレッシャーや期待や批判を浴びるほど受けて、精神的にも肉体的にも強くなっている。
 もうあの頃の圭悟じゃないんだ。
 ぼくは少し寂しくなって、誤魔化すように微笑んだ。
 同じ夢を語り合った親友だった。
 同じポジションを争ったライバルだった。
 自慢のエースだった。
 焦燥感とくやしさをテレビの前で見せつけられた。
 いろいろな感情が渦巻いていた。
 でもこの場所に立って、圭悟を前にすると、それらが全てなくなった。
 ここはそういう場所だ。
 目指すゴールも、時間をつげる電光掲示板も、指示するベンチも、敵と味方を分けるハーフウェイラインも存在しない。
「そろそろ時間だな」
 圭悟が静かにつぶやいた。
 その言葉で現実に引き戻される。
 いつまでも子供みたいにボールを追いかけてられない。
 ぼくたちはプロになったんだ。
 いくつものしがらみ、多くの想い、いろいろなものを背負い込んだサッカーしか出来ない。
「髪染めたんだな」
 圭悟が無造作に茶色に染まったぼくの髪をつまむ。
「メイクさんがこっちの方が似合うって染められたんだ」
「メイク?」
「うちのチームにはそういうのもあるんだよ」
「ふーん……変わってるな」
 圭悟はぼくの髪から手を離す。それからスタジアムに向けて歩き出した。ぼくはその背中を追いかける。
「約束だったよな――」
「え?」
「始めての試合の時は、三汰と二人でピクシーゲートをくぐってスタジアムに入るって」
 儀式みたいなものだ。
 ずっと昔から繰り返してきた習慣。
「そうだな」
 ぼくは走って圭悟の横に並び、歩調を合わせる。
 並んで歩いていると、どちらからともなく笑い出した。
「なんか変だ」
「当たり前だろ」
 鉄塔を目指し
 坂道を上って
 スタジアムに向かい
 ピクシーゲートをくぐる
 その先にピッチはある。
 
 ブーイングとも歓声ともとれない声がぼく達を包み込んだ。
 振り返ると芝宮さんの守るゴールが見え、ネット越しに真っ赤に染まったスタンド席が聳えている。
 満席だ。
 スタジアム全体が真っ赤に染まり、地響きのような歓声が肌にまとわりついてくるようだ。
 今年のグランパスは圭悟だけでなく、多くの補強をした。その期待の現われが、親善試合とはいえスタジアムを満席にしたのだろう。
 ハーフウェイラインの向こう。
 グランパスの選手達が見える。
 日本代表フォワードの安里太一。
 『日本の心臓』とも呼ばれた元代表にしてチームキャプテンの日江良幸成。
 アジアの壁とも呼ばれる韓国代表ソ・カンベ。
 ソ・カンベと抜群のコンビネーションをみせる日本代表のリベロ、志賀良介。
 これらそうそうたるメンバーを擁しながら、昨季は無冠に終わった。
 その原因は安里のパートナーと司令塔が不在だったためだと言われている。
 そして今季、ナイジェリア代表フォワードのレゼスマと未来の司令塔壁凪圭悟、そして日本代表ディフェンシブハーフ瀬津久鉄雄ら三名のビッグネームを補強した。
 瀬津久は怪我あがりで出場はないだろう。
 そしてレゼスマと圭悟はベンチにいる。
 どうやらスターティングメンバーは昨季のベストメンバーで組んできたようだ。
 テレビ画面で何度も見た選手達。
 彼等がすぐ目の前にいる。
 だけどぼくは興奮したり舞い上がることもなかった。
 とても落ち着いている。
 いい感じだ。
 儀式がきいたのかもしれない。
 メインスタンドの上部を見る。
 あのどこかに麻生監督がいて、ぼくのプレーを見ているのだろうか?
 ぼくのポジションをみて驚いているだろうか?
 そしてこのスタジアムのどこかに両親がいるはずだ。
 赤いユニフォームのサポーターに囲まれて肩身の狭い思いをしているだろうか?
 主審が笛を口にくわえる。
 高らかに試合開始をつげる音は、すぐさま地鳴りのような歓声にかき消された。
 安里が短くボールを蹴り出した。
 ぼくのプロとしての第一歩が踏み出された。
 
   4
 
 いきなりの猛攻だった。
 グランパスの選手達は様子を伺うこともせずに、パイレーツ陣内に殺到してくる。
 そして混雑と混乱が起きる。
 おそらくはグランパスの選手達はパイレーツのことを知らないため、最初は様子を見てくるだろうと踏んでいた。その隙をつかれた格好だ。
 今年から就任してきたフランス人監督――ジャン・アルマンの挨拶といったとこだろうか。
 岩井がマークの確認をしろと周囲に声をかける。しかし全体的に戸惑いが隠せず、何人かのフリーの選手を生んでしまう。
 日江良から安里に向けて早いパスが蹴り出される。岩井が安里のマークにつこうと動き出す。
 だけどそれがオトリであることは知っていた。
 昨季、グランパスの試合は全て観た。その中で何度かお目にかかったパターンだ。
 安里がボールをトラップせずに、飛び越えるようにスルーする。岩井が驚きボールの先を視線で追う。
 空いた岩井のポジションに赤いユニフォームの選手が飛び込んでくる。しかし彼の元へ届く寸前で、ぼくの足がボールを捉えた。
 今度は逆にグランパスの選手達が驚く番だった。
 典型的な失点パターン。
 これも昨季何度もみられたパターンだ。
 ぼくは相手ゴールにむかって大きくボールを蹴り出す。
 小山君が絶妙のタイミングで前掛かりになった相手ディフェンス陣の裏へ飛び出した。
 ボールが正確な軌道を描いて小山君の足下へ落ちる。
 しかし小山君はトラップに失敗し、大きくボールを跳ねさせてしまう。それがスピードを落とすこととなり、相手ディフェンダーに追いつく時間を与えてしまった。
 小山君は慌ててボールをトラップし直し、加速しようとする。しかしそこへソ・カンベの長い足が伸びてきた。
 小山君ごと吹き飛ばすスライディング。
 笛が鳴った。
 審判を観る。
 直接フリーキックだ。
 抗議するグランパス選手たちを尻目に、図師が笑みを浮かべる。
 フリーキックは図師が蹴ることになっていた。
「いよいよ俺の見せ場だな」
 ぼくはつぶやく図師の側によって耳打ちする。
 図師が頷く。
 そしてやっと抗議が終わって、執拗な抗議から日江良にイエローが提示された。
 不服な表情を浮かべながらゴール前の守備につくグランパスの選手達。
 パイレーツからも神川兄弟、岩井といった長身選手がゴール前に上がってくる。その中にぼくもこっそりと混ざった。
 図師が笑顔で手をあげる。
 ブーイングを受けながらも、ニヤけた顔でスタジアムの女子高生に手を振っている。
 大丈夫か? アイツがキッカーで。
 図師が手を下ろす。
 すっと笑顔が消えた。
 ぞくっとした。
 ブーイングは鳴りやんでいなかったのに、図師の回りだけがとても静かにみえる。
 ゆっくりと助走をとる。
 そして沈み込む独特のフォームからボールが蹴り出された。
 まっすぐに神川兄弟の兄――成行の元へ。マークについていた志賀が成行を押さえつけるように飛び上がる。
 だけど成行は飛ばない。
 成行が髪型が乱れるとか言う理由で、はなからヘディングする気がないのはパイレーツの選手なら誰でも知っている。だがグランパスの選手がそれを知るはずもない。
 正確なキックは飛び上がった志賀の頭の上を通過し、急降下する。
 ぼくはそのボールに飛び込んだ。
 長身選手達の間にいたぼくをキーパーは見逃していた。慌てて手を伸ばすが間に合わない。
 パスっとネットが揺れた。
 瞬間、スタジアムが静まりかえる。
 そしてため息が響くと共に、ぼくは仲間の祝福にもみくちゃにされた。
 プロ第一号だ。
 痛いくらい頭を叩かれる中、図師をみる。
 親指を立てる図師。
 ぼくもガッツポーズでそれに答える。
 初ゴールの時はピクシー風のガッツポーズをしようと思っていたのに、すっかり忘れてしまった。
 このゴールを麻生監督はどう観ただろうか?
 両親は?
 高校時代のチームメイトは?
 祝福か? 嫉妬か? 尊敬か? 
 ベンチを見る。
 神楽監督はグラサンをかけたまま、だまってタバコをふかしていた。
 それを見て、ぼくも気をひきしめる。
 まだ試合に勝ったわけじゃない。
 試合はすぐさま再開された。
 安里がペナルティエリアの外から強引にミドルシュートを放つ。ボールはクロスバーをかすめて悲鳴を上げる観客席へ飛び込んでいく。
 いつの間にかゴール前には黒とえんじのユニフォームを着たパイレーツの選手たちで埋め尽くされていた。
 ソ・カンベがオーバーラップし打点の高いヘディングをみせる。しかし運悪くゴールポストに当たり、乾いた音を立てる。
 安里が岩井と神川弟をかわして打ったシュートは、キーパーの芝宮の正面をつき、その腕の中に収まる。
 途方もなく長い時間、攻められている気がした。
 やがて試合開始から二十分ほど過ぎた頃、グランパスの選手達の顔に疲労が浮かび出す。一方的に攻めた事による、疲れが、プレーを雑に単調にしていく。サポーターの応援すら元気を失っていく。
 チャンスだ。
 昨季、こういう状況からグランパスはカウンターを招き、失点していった。そして下位チーム相手に星を落としたのだ。
 安里のサイドチェンジが誰にも届かず、タッチラインを割る。グランパスの選手達の自陣に戻る足取りが重い。
 ぼくは慌ててボールをスローインしようとした。
 カウンターのチャンスだ!
 しかし審判の笛がそれを制する。
 そして試合開始にも負けないほどの歓声が鳴り響く。
 観客の視線が一点に注がれていた。
 ぼくは思わずボールを手から落としてしまった。
 選手交代ボードが十番を告げる。
 ストイコビッチと同じ、グランパスの十番。
 壁凪圭悟の背番号。
 選手のひとりとハイタッチを交わし。
 圭悟がピッチに踏み込んだ。
 空気が変わった。
 そんな気さえする。
 いや、確かにグランパスの選手達の顔から疲労が消えていた。それどころか笑顔さえ見える。
 やっと約束を果たす時が来た。
 この豊田スタジアムのピッチの上で。
 二人で立とうという――約束。
 ゆっくりとピッチの中央へ歩いていく。
 圭悟の定位置へと。
 圭悟の目がぼくをとらえる。
 ぼくが笑いかけようとした瞬間、射るような圭悟の視線がぼくを硬直させた。
 そうだ――
 今は勝負の時だ。
 さあ、始めよう。
 ぼくは思い切ってボールをピッチに投げ入れた。
 圭悟が駆け出した。
 
      つづく





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