XII−NO.12の戦士達−

第六節
 
     第六節 ボールの行く末
 
   1
 
 テクニック、テクニック、テクニック……
 それだけしか考えていなかった。
 ぼくの他にプレーヤーはいなく
 ぼくの出来だけが全てを決めるのだと。
 
 あの日――
 壁凪圭悟が国立でゴールを決めた日。
 何が起きていたのかを考えてみる。
 
 圭悟がハーフウェイラインとセンターサークルの中間当たりで江藤からボールを受ける。
 まず江藤が再三つづけていたワンツーパスを狙った裏への抜け出しをみせる。圭悟の視線がその江藤を追うとDFの意識も江藤に引きつけられた。DFはラインを上げて江藤をオフサイドトラップにはめようとする。
 そこで逆サイドから樹里がオーバーラップを仕掛けてきた。
 麻生監督が徹底的に練習でたたき込んだ二列目の飛び出しと、第三の動きだ。圭悟は反転して樹里へとパスを出すように足を振り上げる。
 樹里の絶妙なオーバーラップに、ゴールキーパーは間に合わないと判断し、飛び出しをみせる。
 だが圭悟の蹴ったボールは樹里の足下ではなく、飛び出しかけたゴールキーパーの頭上をあざ笑うかのように優雅に飛び越え、ゴールに吸い込まれた。
 
 あざやかなループシュート。
 そう。見た目にはただ圭悟のシュートが上手かっただけだ。
 しかしそこには多彩な心理戦が盛り込まれていた。
 試合を通じて狙い続けたDFラインの裏へのスルーパス。
 そして先制点の起点になった二列目の飛び出し。
 圭悟はそれらをフェイクにし、味方の選手だけでなく、相手の選手まで操ってみせた。
 すべてのフィールドプレーヤー達が圭悟に踊らされていただけだった。
 思えばぼくの身勝手でトリッキーなパスも、圭悟がぼくの心理を読んでいたから受けられたのだろう。
 すべての選手を巧みに操ってみせた壁凪圭悟。
 まさにマエストロだ。
 敵も味方も、観衆さえも、彼のおもうままに操られる。
 今までは味方が自分への理解が低いためにパスを受けられないのだと思っていた。ぼくのプレースタイルを理解できていないのだと。
 実際には逆だったのだ。
 ぼくが味方のプレーを理解していなかった。
 そして敵のプレーを理解していなかった。
 相手の意表をつくスペースにトリッキーなパスを送る。ただそればかり考えていた。
 ストイコビッチのように、ヒールでパスしたり、ノールックでパスしたりすることに意味があると感じていた。そのパスを受けられる選手がいるのかどうかも考えずに。
 だがぼくは気づけた。
 気づけたんだ。
 体中がボールを蹴りたくてうずうずしている。
 世界が広く見える。
 今ならすべてがうまくいきそうな気がする。
 
   2
 
久留須「ぼくは別に服装にこだわりがあるわけじゃないんです。高校時代だって、制服着て、ジャージで日が暮れるまで練習して、家に帰って寝るだけでしたから、お洒落なんてほとんど考えたことはないですね」
 ――でも結構、センスのある服を選んでると思いますよ。
久留須「そうですか(照れ笑い)貧乏性なんですよ。だからなるべく長持ちするように素材のいいものを選んでる。そうしてると自然にブランド物になっちゃうんですよね」
 ――今日はセドリク・クロトワのジャケットね。(セドリク・クロトワ:つい最近、デ・ドール賞を受賞して、今パリで注目を集めている若手デザイナーの一人)クロトワはなかなか日本人の体型には合わないんだけど、すっかり着こなしてるのは流石ですね。
久留須「クロトワは普段からよく着てますからね。体が慣れてきたんでしょう」
 ――確かパイレーツのユニフォームをデザインしたのも彼だとか?
久留須「そうですよ」
 ――それはうれしいかぎりですね。
久留須「普段着にしたいくらいです(笑)」
 ――それで彼女とデートしたりとか? (笑)
久留須「残念ながら、今は彼女はいないですね。チームでレギュラーとるのに必死で」
 ――でも、高校時代からもてたでしょう?
久留須「女の子は全部、壁凪選手がもってちゃいましたから(笑)」
 ――じゃあこれからの活躍して、壁凪選手を追い越すくらいのプレーをみせてくださいよ。
久留須「そしたらきっと代表やアジアクラブ選手権で、今より忙しくて彼女どころじゃなくなりますよ」
 
 バカバカしい。
 何が壁凪選手を追い越すくらいのプレーだ。
 圭悟の実力もよく知らないクセに、簡単に語りやがって。
 ファッション誌の記者は、あいかわらずミーハーな感じで図師にインタビューを始めている。図師はどうやらまんざらでもないようで、ぺらぺらと自分の恋愛談をしゃべりだし、逆に記者を困らせていた。
 ぼくはポケットから一枚のプリント用紙をとりだす。そこにはあらかじめ用意された質問と、それに対する解答の仕方が書かれていた。さっきのインタビューは、ほとんどここにある模範解答をなぞっただけのものだ。
「まあまあの出来ね」
 その声にぼくは振り返る。
 スタジオの奥、鮎川美里がイスに腰掛けてインスタントコーヒーを口にしている。そしてサングラス越しに出来上がったぼくの写真を眺めていた。
 着たこともないクロトワのジャケットを羽織り、恥ずかしくポーズをとっている。
「この素人っぽさがいいのよ」
 机の上から一枚写真をとりあげて、ぼくにみせつける。目をつむってしまったヤツだ。いや、つむってしまったならまだいい。閉じかけで、不細工な顔になってしまっているのだ。
「それ捨ててくださいよ。どうせ使わないんでしょ」
「使うか使わないかはわたしが決める事じゃないし。全部冴嶋さんに任せてあるから」
 冴嶋とはぼくの写真をとったカメラマンのことだ。なんでも有名なカメラマンらしく、アイドルの写真集などをおもに手がけているらしい。早朝から、とてもエネルギッシュで、大声を出しては徹夜明けのぼくの頭をひどく痛めつけてくれた。
 朝っぱらから呼び出しをうけて、いきなりスタジオにつれてこられてファッション誌の撮影。
 そしてこのあとは、スポンサー企業のガムのコマーシャルに出演することになっている。
「こんなことしてるヒマがあったら練習したいんですけど」
 はやくボールが蹴りたいんだ。
 今の冴え冴えしている感覚が失われないうちに、それを実践したい。
 神楽監督がぼくを褒め称え、岩井がぼくに畏敬の念をしめし、福田がぼくにひれ伏す。
 頭の中であらゆるシチュエーションが描き出され、それぞれを完璧にこなしている自分がいる。
 ぼくは今、絶好調だった。
 なのにこんなサッカーとは関係のないことばかりやらされている。
「あら、これだって大事な仕事よ。こうやって宣伝して、チームの顔を売って、こういうことが集客力につながるのよ」
「客が来たってプレーが下手だったら意味がありません」
「そもそも客がいないなら、どんなプレーしたって意味がないわ」
「いいプレーをしていれば成績が上がって、自然と客も増えていくはずです」
「そのいいプレーを見抜ける人がどのくらい日本にいるのかしらね? 今のサッカーファンは主に若者よ。そして彼等は非常にうつろいやすい。今はサッカーが好きでも、メディアや漫画で取り上げられれば、すぐにバスケットやテニスのファンになってしまう」
「そんなミーハーなやつらはほっとけばいい」
 流行やファッションでサッカーを好きになった人間なんて、サッカーファンなんて呼べない。彼等は知識もないままに、好き勝手なことをいうだけだ。代表プレーした経験もないクセに、まるで代表監督であるかのように選手を語る。
「そうもいかないのがビジネスなのよ。目の肥えたサッカーファンが落とす収益で成り立つほど簡単なものじゃないの。第一、すごいプレーなら今はCSやケーブルに加入すればライブで海外リーグの試合がみられる時代よ。そんな目の肥えたファンを納得させられるプレーがあなたにできるというの? マラドーナやロベルト・バッジョのようなプレーが可能だと?」
 頷けるはずがない。
 ぼくは所詮、高校の部活ですらレギュラーになれなかった男だ。どんなことをいっても説得力がない。
 だからプレーしたかった。
 プレーして自分の価値を示したかった。
 今ならそれができる気がした。
 いや、今だからこそだ。
「たとえあなたにマラドーナほどの実力があったとしても、チームメイトに力がなければ勝てないわ。サッカーは個人競技じゃないもの。そして優秀なチームを作るために選手を獲得するのにも、その選手を育成するのにも、選手のコンディションを管理するのにも、全てにお金が必用なのよ」
 サッカーは個人競技じゃない。
 そんなのはわかっている。
 でもぼくならあのチームを変えていける気がした。
 チームメイトを理解し、チームメイトを巧みに操り、相手選手までコントロールする。
 圭悟の域に近づく。
 確かに個人の力では勝てない。だが個人のプレーが局面を変えることもあるのだ。
 例えば劣勢の中で放った一発のシュートがチームの志気を鼓舞したり、一本のスルーパスが相手のDFを混乱させることもある。
 圭悟は常にそれをやってきた。
 中学時代、ぼくがあきらめて試合を投げ出そうとした時、その度に圭悟のゴールに励まされ逆転を意識したり、圭悟の突破に希望を見いだせたりした。
 もう壁凪圭悟はお前を助けてくれないぞ。
 神楽監督の言葉が蘇る。
 だったらぼくが圭悟になってやる。
 パイレーツの圭悟になるんだ。
 チームメイトの羨望を集め、監督の信頼を得て、ファンに愛される存在になるのだ。
 そのためにあの高校時代の苦しみが存在したんだ。
 きっと挫折をあじわったぶん、ぼくは圭悟より強くなれる。
 圭悟を越えられるはずだ。
「ぼくがチームをJ1昇格に導いてみせますよ」
 美里さんは目を丸くしてぼくをみた。
 当然だろう。
 高校サッカー部の補欠だった男がそんな大口をたたくなんて、ぼくだって美里さんの立場なら失笑するだろう。
 だけどぼくにはそれができる気がした。
 可能性は無限に広がっている。
 チームメイトがひとつになり、やがて変貌をとげ、ルックスだけが売りだったJ2のお荷物チームが大躍進する。
 そしてその中心にぼくがいるのだ。
 ボールを蹴りさえすれば、その夢が叶うのだ。
 ボールを蹴りさえすれば。
   
     3
 
 ガムのコマーシャルの撮影を終えて解放されるかと思ったら、そのあとに歌のレッスンが待ちかまえていた。
 歌のレッスンではマーメイドの女の子達も一緒で、アカネの姿もあった。
 同じ徹夜明けだというのに、ぼくが酷い顔色なのに対し、アカネは微塵もそんな様子をみせなかった。
 さすがに慣れているなと思った。あのプロフェッショナルをみれば、目の下にクマをつくっていた雫奈緒が落ちたのもうなづける。
 発声練習をしている際に、欠伸をしてしまい、元歌手の先生に怒られた。  やる気はあるのか! と。
 やる気なんてない。
 サッカーをやらせてくれ。
 苛立ちが募っていく。
 お手本として小山君が歌った。
 メロコア系の歌はぼくにはよくわからなかったけど、その技術と存在感のある声に圧倒された。普通にプロの歌手みたいだ。
 横二列になって、発声練習をつづける。
 図師も関東も真面目な顔でやっている。マーメイドの女の子達も。なんだか変な光景なのに、誰一人として吹き出したりしない。
 なんでこんな事に真剣になれるんだ?
 ぼくたちはプロのサッカー選手だろ?
 なんだか自分の価値観が音をたてて崩れていくようだ。
 この世界中に張り巡らされていた正しいことや、当たり前のことが、実は自分だけのもので、本当は全然正しくなかったり、まったく当たり前じゃなかったりするんじゃないだろうか。
 むしろぼくだけが世界中の価値観からズレた位置にいて、これからもこのズレに苦しめられていくんじゃないだろうか。
 不安がぼくを締め付ける。
 高校時代は逃げ出せば良かった。
 どんな価値観だろうと、どんなルールだろうと、関わらずに逃げていることができた。それが許された。
 だけど今はどこにも行き場はない。
 どんどんと押し寄せてくる苦しみや、悲しみや、厳しさや、怖さに自分で立ち向かっていかなくちゃならない。
 あらゆるものがわずらわしい。
 ピッチの上に立てさえすれば、そういった多くのしがらみから解放される。
 複雑な社会のシステムも、難儀な人間関係もない。呼吸して、走って、蹴って、走って。
 はやくピッチに立ちたい。
 それだけを考えるようにし、ぼくはひたすら声を出し続けた。
 
 月島のグラウンドについた頃には、太陽がビル群の向こうに飲まれ欠けており、その無機質な東京の街のシルエットを描き出していた。
 照明がグラウンドを照らしている。
 きらきら、きらきらと芝が輝いているようだ。
 やっとサッカーができる。
 さっきまで生温かくぼくを包み込んでいた、眠気や疲労感が一気に吹き飛んでいった。
 おもわずほほが緩む。
「ふん、今頃出勤か。ハンサムボーイどもは気楽でいいな」
 グラウンドでダッシュの練習をしていた岩井が嫌味っぽい笑みを浮かべる。よほど激しい練習をしていたらしく、体から湯気のようなものが立ち上っている。
 小山君が辟易した表情を浮かべ、小声でぼくに耳打ちする。
「あいつらがこんな照明や芝の上で練習できるのも、俺らが歌ったCDの売り上げやCMスポンサー料のおかげだってのに、よくいうよな」
「よーし、全員そろったな」
 グラウンド脇のベンチに座ってタバコをふかしていた神楽監督が、高らかな声をあげる。
「今来た連中はすぐにアップしろ! 今から今後の練習方針を決めるために紅白戦を行なう!」
 ぼくはこぶしをぐっと握りしめた。
 チャンスだ!
 ここでいいプレーをみせれば一気にレギュラー入りに近づける。そして来週のグランパスとの親善試合に出場できる可能性がでてくる。
 ぼくは意気揚々とアップを開始した。
「なんや。サイドラインにマーカーコーン置いて……試合するんか?」
 ストレッチの体勢から顔を上げると、金網の向こうにアーセナルのニット帽を被ったちかちゃんが立っていた。その横にはアカネもいる。
「実践形式で育てる監督なん?」
「さあね。とりあえず実力を観てみたいな事をいってたし」
 ちかちゃんは「ふーん」といいながら神楽監督をみる。神楽監督はタバコをくわえたまま、ホワイトボードに何か書き記している。
「そやったらチャンスやな。実力を証明したれや」
「もち」
 ぼくは念入りにアップを続ける。
 高校時代と同じ轍を踏むつもりはない。あの時は出だしで失敗した。
 最初の紅白戦で活躍した圭悟と、何もできなかったぼく。あの時から差が一気に広がった。麻生監督は圭悟ばっかりみるようになり、ぼくには見向きもしなかった。
 あの出だしでの失敗がなければ、もっと違った結果になっていたはずだ。
 ここが大事なんだ。
 最初にもたれたイメージを覆すのは難しい。来週の親善試合に出るためにも、ここでの失敗は許されない。
 体中が温まりほぐれていくにつれ、ぼくの集中力が研ぎ澄まされていく。
「おし、できた」
 神楽監督がキュッとマーカーペンの蓋をしめる。それからアップしている選手達にみえるようにホワイトボードを反転させる。
「とりあえずこれでやってくれ」
 ホワイトボードを二分して書き込まれた二十二人の名前。それぞれの位置がポジションをしめしている。
 あれ? ぼくの名前がない。
 両チームのトップ下をみると、福田と関東になっている。ぼくはとりあえずミッドフィルダーのポジション全てを確認してみたが、やはりぼくの名前はなかった。
 ぼくの名前を書き忘れたのだろうか?
「おい、ハンサム」
 背後から野太い声がして、ぼくは振り返る。そこには険しい顔をした岩井が立っていた。
「足引っ張るんじゃねーぞ」
 一瞬なんの事かわからなかった。同じチームなんだろうか。ぼくは岩井のいるチームの名前をもう一度よく確認してみる。
 そしてぼくの名前を発見した。
 ホワイトボードの下。
 岩井の隣。
 つまり3バックの中央。
 ディフェンダーだ。
 頭が真っ白になった。
 これと似た状況を覚えている。
 ずっと圭悟の控えとして二軍のトップ下を務めてきた。
 だが三年の夏の日、インターハイに向けた合宿中にその座を一年生に奪われた。
 そしてぼくは人数あわせのディフェンダーに回された。
 目の前で控えの座を奪った一年生にゴールを決められた記憶。
 昨日のプレーがそんなにいけなかったのだろうか?
 あの雑なプレーが。
 もうぼくは烙印を押されてしまったのか?
 挽回のチャンスはないのだろうか?
 すがるような想いで神楽監督をみるが、神楽監督はそんなぼくの視線には気づかずに手を叩き、早くピッチに入るように促す。
「監督――!」
「おい、ハンサム! さっさと位置に着け!」
 ぼくの声は岩井にかき消された。
 ぼくは救いを求めるように視線を巡らせる。だが他の選手たちは次々とポジションについていく。あっという間に、ぼくのいるべきトップ下は埋まってしまった。
 ちかちゃんとアカネが期待のこもった目でぼくを見ている。アカネはガンバレといったふうにガッツポーズをしてみせる。
 違うんだ。
 ここじゃ何もがんばれない。
 ここはぼくの居場所じゃない。
 神楽監督がタバコを外し、煙を吐き出す。それから代わりに銀製のホイッスルを口にした。
 ピー、というかん高い音が寒空に響き渡り、センターサークルからボールが蹴り出された。
 
   4
 
 ゆっくりとした試合展開だった。相手は繋ぎのパスをくりかえし様子を伺うばかり。ぼくたちのチームも無理にとりにはいかない。
 ぼくはといえばすることもなく、ただ何とはなしに動いていた。
「ハンサム! ラインが崩れているぞ!」
 岩井の怒声が響いた瞬間だった。
 ぼくの視界の端を何かがよぎった。
 相手チームの福田が軽くポーンっとボールを蹴り出す。
 そしてそれは、ぼくとゴールキーパーとの間のスペースに。そのスペースに向かって走る人物がいた。
 小山君。
 オフサイドギリギリで飛び出し、猛スピードで駆ける小山君。そのスピードにゴールキーパーは飛び出すタイミングを逸した。
 完全にぼくのミスだった。
 ゆっくりした試合展開に気を抜いていた。
 ぼくは必死に小山君を追う。
 小山君はゴールキーパーと対峙し、一瞬迷った。それから選択肢の中からゴールキーパーを抜くことを選んだ。
 その一瞬躊躇が、ぼくに挽回のチャンスを与えた。
 小山君は切り返してゴールキーパーをかわす。
 ぼくはなんとか小山君の前に回り込むことができた。
 小山君とゴールの間にはぼくだけ。
 小山君がすばやく足を振り上げる。
 フェイントだ。
 すぐにわかった。みえみえのフェイント。重心がすでに切り返す方向へ移動している。
 河川敷で圭悟とやった一対一。
 ずっと繰り返したあの光景。
 ふいにその時の郷愁めいたものがぼくの心をよぎった。
 あの河川敷で何十万回と行なわれた圭悟のフェイント。それに比べたらこんなフェイントはちゃちなものだ。
 ぼくはフェイクを見破り、軽々と小山選手からボールを奪う。
 そしてそのままクリアボールを蹴り出そうとした時。
 視界が開けた。
 
 こぼれ球を押し込もうとしていた選手達はポジションを乱し、ぼくはフリーとなっていた。
 トップ下にいた関東がボールをもらおうと左サイドへと開いていく。相手の守備的ミッドフィルダーがそのマークへと向かう。
 ぼくの前に広大なスペースが生まれた。
 自然と駆け出していた。
 キラキラと光彩を放つ芝。
   遠い相手ゴール。
 クラブハウスと金網越しにみえる東京の街並み。
 吸い込まれそうに薄暗い空模様。
 世界がとても広く感じられる。
 一歩、一歩と駆けるたびに自分の心が高揚していくのを感じる。
 気がつくと相手陣内に入り込んでいた。
 慌てて数人の選手がぼくのボールを取りに来る。
 その瞬間、マークが乱れた。
 ぼくはフリーになった選手にボールを渡し、スペースのできた右サイドへ走り抜ける。
 フリーの選手からぼくにボールが戻ってくる。
 中央のディフェンスがぼくのマークにつこうと飛び出してくる。
 そしてマークの薄くなった中央に長身の味方選手が見える。
 ぼくはその選手に向かってクロスボールを上げた。
 完璧なクロスだと思った。
 キーパーにも触れない、彼のためだけのボール。彼の身長に合わせた完璧な軌道。
 だがその長身の選手は跳びもせずに、そのボールを見送った。
 完璧だったボールはそのまま逆サイドのタッチラインを割ってしまう。
 なんだ?
 なんでヘディングしないんだ?
 オフサイドだった? 線審を務めるスタッフをみるが、そんな様子は微塵もない。
「なんでヘディングしないんすか!」
 ぼくは思わず声を張り上げて長身の選手に向かっていった。長身の選手は冷たい目でぼくを一瞥すると、つまらなさそうに髪をかき上げて答えた。
「ヘディングなんかしたら髪型が乱れるだろ。俺は華麗なボレーシュートしか打たないから今後よろしく」
 は?
 髪型が乱れる?
 そんな理由でぼくの芸術的なクロスボールを見送ったのか?
「ハンサム!」
 岩井の怒声が遥か後方から響く。
 気がつくとすでにゲームは再開されていた。ぼくは慌てて自陣へと戻っていく。
 戻りながらひとつ閃いたことがあった。
 トップ下の関東は元々左サイドの選手だったため、左に開いてボールを受けたがる。
 自然に中央が開く。
 そこへぼくが飛び込んでいけば。
 そしてトップ下としての活躍をみせれば。
 もう一度あそこに返り咲けるのではないだろうか?
 もちろんディフェンスをおろそかにはできないのでタイミングを見計らわなければならない。
 それでもチャンスは皆無ではない。
 もう一度、ぼくの力を証明するチャンスが。
 
 岩井が小山君のスピードにブッちぎられる。
 ぼくはなんとかカバーに間に合い、小山君の足下からボールを奪い取る。
   そしてすかさず前を向く。
 さすがに今度はぼくのドリブルを警戒しているのがわかる。
 相手の目線、位置、動き方。
 フィールドプレーヤー全てに意思がある。それを読みとればいいんだ。
 関東は再び左サイドへとマークを連れていく。
 中央が開く。
 一度サイドの選手にパスを出して、ぼく自身はそこに走り込めばいい。
 そう思って右サイドで手を挙げている図師にパスを出した瞬間だった。
 ピッ、ピッ、ピー。と笛の音が唐突に鳴り響いた。
 選手達の視線が音の主である神楽監督に注がれる。
「オーケー、オーケー。大体わかった」
 神楽監督はタバコを口にする。
 分かった?
 違うんだ!
 これからなんだ!
 ぼくの本当の力をみせるのは!
 あと少し。
 あと少しでいいからプレーする時間が欲しい。そうすれば証明できる筈なんだ!
 だがぼくの想いとは裏腹に選手達は談笑しながらクラブハウスに引き上げていく。
 結局、また同じことの繰り返しなんだろうか。
 ぼくは憔悴したようにベンチに座り込んだ。
「まあまあやな」
 振り返ると金網の向こうにちかちゃんとアカネが立っていた。
「なかなかのスピードやったし、ポジショニングは悪かったけど、ええ守備しとった」
 ちかちゃんが精一杯褒めてくれようとしているのはわかった。
 だけどぼくには自嘲気味な笑みを浮かべることしかできなかった。
「残念だけどね。ぼくはディフェンダーじゃないんだ」
「そうなんか。それにしてはよく止めとったな」
「子供の頃から圭悟と一対一ばっかしてきたからね。アイツに比べたら大したことない相手だったよ」
「ほんなら壁凪圭悟以下の選手はみんな止められるってことやな。それはそれですごいとおもうで」
「ありがと」
 無理にポジティブに考えればそうなるだろう。だけどぼくの実力はまったく証明できなかったんだ。
 結局、何もしてないのと一緒だ。
「じゃあ、うちは先に帰ってご飯の用意せんとな」
「あ、手伝うよ。ちかちゃん」
 ちかちゃんとアカネは楽しそうに話ながら帰っていく。
 あの二人にはぼくの抱えている痛みなんてわからない。
 神楽監督も、チームメイトも、麻生監督も、母も父も、圭悟も。誰一人ぼくの苦しみなんて理解してない。
 誰かに聞いて欲しかった。
 誰でもいいから。
 ふいに雫奈緒の顔が浮かんだ。
 だがすぐに打ち消した。
 よく言えたもんだ。
 ブルーパークで待っているなんて。
 ぼくは結局――
 何が
 何が「結局」だよ!
 まだ結論なんて出てない!
 出来ることがあるのにあきらめるのか?
 まだある筈なんだ。
 まだチャンスが。
 ここであきらめたらまた同じ事の繰り返しだ。
 今が大事なんだ。
 ここが勝負所なんだ。
 これは越えなきゃならない壁だ。
 今度のグランパス戦に出られないとしても、まだまだ長いリーグは続いていく。
 チャンスはきっと来る。
 まだあきらめるのは早い。
 ぼくは立ち上がり足下にあったボールを軽く蹴り出す。
 そしてゴールへ向かって大きく蹴った。
 小さなボールがフィールドの上をよぎる。
 スポットライトを四方から浴びて。
 ボールの行方。
 それが人生を左右する。
 サッカー選手という人生。
 あのボールはゴールに吸い込まれるのだろうか?
 それともポストに当たるか?
 大きくそれていくのか?
 誰にもわからない。
 丸いボールを足で扱うというスポーツは、先が予測できない。
 だから面白いんだ。
 何が起きるかわからないから。
 勝敗がわからないから。
 未来がわからないから。
 きっと人生も同じ。
    



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