XII−NO.12の戦士達−

第五節 日はまた昇る

 
     第五節 日はまた昇る
  
   1
 
 引っ越しのあいさつまわりに、母が用意してくれたのはういろうだった。
 何かといえば母はういろうだ。
 だが名古屋の銘菓とはいえ、ぼくがういろうを口にするのは二年に一度あればいい方だ。もちろんその辺のスーパーやコンビニに置いてあることもなく、買うとなれば大きな百貨店か大きな駅、ういろう専門店に出向かなければならない。
 地元の人間がほとんど食べないようなものを、果たして銘菓と呼んでいいのだろうか?
 ういろうが三本はいった箱にのし紙がまかれ「粗品」と明記してある。米粉と砂糖で作られたういろうはすこし重く、名古屋から東京へ来る間、その重さは随分とぼくの肩を苦しめてくれた。
 絶対にシャチホコがデザインされたサブレかなんかの方が良かった。
 ぼくはういろうの箱を二つもって玄関を出た。
 玄関を出た途端、いい匂いがした。すぐ目の前のマンションから流れてきたカレーの匂いだ。
 そういえば八時からご飯だっけ? 管理人さんにもういろうを渡すようにいわれてたなぁ。ちかちゃんに渡せばいいんだろうか? そもそも彼女は管理人なのか寮長なのか。
 そうこう考えているうちに隣の部屋の前に立つ。
 普通クラブの寮といえばクラブ専用のものを浮かべるのだが、シーメンズは近くのマンションと提携する形で寮を確保していた。そしてそれはパイレーツになってからも変わらない。設備的には普通のマンションなので、その辺の寮よりは充実してるといえるだろう。
 そのためか隣がクラブの関係者とは限らない。
 普通はもっと管理の行き届いた寮で、プロらしく食事から門限、睡眠時間まで管理するものだろう。しかしパイレーツではかなり選手の自主性に任せている。
 というより、フロントはスタジアム等の設備や広報活動には熱心だが、肝心の練習施設や寮にはあまり関心はないのがありありと感じられた。
 ぼくはチャイムに伸ばしかけた手を止めて、ふと自分の姿を見る。
 Tシャツにハーフパンツといった近所のコンビニにでも行くようなラフな格好。こういう時はある程度しっかりした服装の方がいいのだろうか?
 だからといって着替えに戻る気にもなれず、結局チャイムを押した。トーン記号の描かれたプラスチックの板が沈み、すぐさまクリーム色のドアの奥から微かにピンポーンという電子音が聞えてきた。
 ちょっとドキドキした。
 三○三号室に越してきた久留須と申します。今後ともどうぞよろしくお願いします。
 頭の中であらかじめ決めておいた挨拶の言葉を反芻する。
 ドタドタという足音が響いてきたと思った瞬間、勢いよくドアが開いた。
「もうミホ! 遅いよ! どこまで買い物に――!」
 驚いた垂れ目が見開かれる。
 前髪だけヘアピンで留めてあったが、あとは寝起きのようにボサボサな髪。三分の二以上なくなった眉。アルバローザのTシャツにジャージのズボン。
 お台場でみた時とはまったくの別人のようだが、垂れ目も美しいボディラインも、確かにアカネその人だった。
 開いた時の倍の速さでドアが閉まる。
 バタンという音がマンションとマンションの間の狭い空間に響き渡り、帳の落ちかけた空へ抜けていった。
 表札を見るとローマ字でHOSHINOとだけ書かれている。ホシノアカネ。そんな名前だったろうか? あの合コンの時、自己紹介したはずだがまったく記憶にない。
 視線を戻した瞬間、ゆっくりとドアが開き始めた。
 だが全開とはいかず、少し開いたところで止まり、アカネが目から上だけを出してくる。
「く、久留須さん……ですよね」
「はい」
「なんでここに?」
「いや隣に引っ越してきたんで」
「うそー!」
「ホントに」
 アカネは驚きに見開かれた目を左右に動かし、頭を引っ込めた。
「ちょっと待っててください」
 そう言って答える間もなくドアが閉じられた。
 結局ぼくはういろうの箱を二箱抱えたまま、二十分くらい待たされた気がする。
 次にドアが開かれた時にはアカネのメイクは完全になっており、ノースリーブのタートルネックにチェック柄のスカートという出で立ちになっていた。
「恥ずかしいなぁ。こんな格好見られちゃって」
 そういって照れてみせる。
 さっきのジャージ姿はなかった事にするんだろうか?
 まあ、別にツッコんだりはしないけど。
「すごいですよね。選手なんだから同じマンションだとは思ってましたけど。まさか隣だなんて。運命感じちゃいますね」
 アカネはそういいながら、お得意のとろんとした笑みをむけてくる。
 なんとなくういろうとか渡しづらい。お洒落なワインでもって感じだ。さっきのジャージ姿でいてくれたら気軽に渡せたのに。
「あ、これつまらないものですが」
 用意した挨拶のセリフは全部飛んでしまった。
「ウソー、ありがとうございます! すごく嬉しい!」
 いや、そんな誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントでも貰ったような反応されても……ういろうだし。
「じゃ、そういうことで」
「あ、よかったらお茶でも飲んでいきませんか? もうすぐ友達も戻ってくるし、別にふたりきりってワケじゃないんで」
「今日はちょっと疲れてるからまた今度誘ってくれる」
 もちろん社交辞令だけど。
「あ、そうですね。部屋も散らかってるし……また今度にしましょう」
 素直に微笑むアカネに罪悪感を感じる。たとえそれが計算されたものであったとしても。
 右隣の三○五号室は留守だった。
 表札には「岩井」と筆書きされていた。
 なんだかそれだけで嫌な気分になった。
 別にありふれた名字だし、あのベテラン選手とは限らないけど、それでも今まさに偶然の再会を果たしたばかりだ。
 部屋に戻ってペンでのし紙に「隣に越してきたものです。今後ともよろしくお願いします」と書いて、紙袋にいれて隣のドアノブに吊しておいた。
 とりあえず両隣とも関わり合いになるのは避けておこうと思う。
 
 最初にしたのは部屋の壁に、ストイコビッチのネームが入ったグランパスのユニフォームと、ファン・バステンのネームが入ったミランのユニフォームを貼り付ける。
 そしてコンポのコンセントをつなぎ、マイルス・デイビスの「On The Corner」をかけて腕まくりして荷ほどきを始める。
 荷をほどきながら、出てきた本を読むのに夢中になってしまった。
 気がついたら八時半。ちょうどBlack Satinのパーカッションが止み大好きなOne And Oneが始まった所だった。
 いい感じに空腹だ。
 本を閉じて、CDを止め、部屋を出る。
 外へ出るとすこし肌寒かった。
 確か103号室だっけ?
 ぼくはアカネの部屋の前を通り過ぎ、階段を降り103号室へ向かう。
 二階から一階へと降りていく途中から、騒ぎ声が聞えてきた。一階に着くと、それが103号室の前から発せられたものであることがわかった。
 103号室の前に数人の男が人だかりを作っている。先程練習場でみかけた顔ばかりだ。みんなドアの中を覗き込んでいる。
「そもそも契約内容にメシつきってあるだろ! これはある意味契約違反だ!」
「うっさいわ! これでええやろ!」
 部屋の中からちかちゃんの声が響くと、カップラーメンが飛んできて、誰かの頭に当たる。
「ふざけんなよ! 俺達はプロだぞ! こんな栄養のかたよったもん食えるか!」
 誰かがカップラーメンを拾って投げ返す。
「うっさい! 黙れや! 普段マズイマズイ言っとるくせに!」
「もう行こうぜ。話にならん。腹減ったし」
 確か練習場でアキとか言われていたアフロの男が肩を竦める。
 アキの言葉に渋々納得してか他の連中も踵を返す。
 アキがぼくに気づく。
「おう新入り」
 人の良い笑みを浮かべる。
「メシか?」
 ぼくは頷く。
「今日は無しらしい。なんかちかちゃん失恋したらしくてそれどころじゃないんだってさ」
 アキは苦笑いを浮かべながらため息をつく。後ろにいた長身の二人組がブツブツとなにか小言を言っている。どうやら兄弟らしく、二人ともうり二つで、二人そろってモデルのような日本人離れした顔をしていた。金髪にしたらハリウッド俳優といわれても納得するんじゃないだろうか? まあ、すごくつややかでサラッとした黒髪を染めるのは逆にもったいなさそうだが。
 もう一人は正真正銘の外国人だった。練習では右サイドをやっていたっけ? 名前は忘れた。確かなんとかディーニョとか呼ばれていた。耳がちぎれそうなほど大きなピアスとサングラス、両腕のタトゥー、ネックレスに連なったブレスレットにリングと、少し動くだけでガシャガシャうるさそうだ。私服で見るとかなりド派手な外国人だった。
「仕方ないからさ。俺ら銀座にでもメシ食いに行こうと思うんだけど、お前も来る?」
 ぼくは首を横に振って断った。
 腹は減っていたが、遠出をする気にはならない。それだったら近所のコンビニで十分だと思った。
「そうか……じゃあ、また明日スタジオで」
 アキ達はぼくの横を通り過ぎマンションを出て行った。
 スタジオ?
 グラウンドでもクラブハウスでもなく?
 何のことだろう? またパイレーツ特有の言葉だろうか?
 103号室を見るとドアは半開きになったままだった。何かがドアの間に挟まっているようだ。ぼくは引替えそうと思ったが、ずっと開きっぱなしなのが気になって部屋を覗いてみる。
 薄暗い廊下が見える。どうやら食堂向けにリフォームされているらしくぼくの部屋とは少し違って見えた。廊下には割れた皿などが散乱していた。相当暴れたようだ。
 その薄暗い廊下にちかちゃんがへたり込んでいるのが見える。
 その手には包丁が握られていた。
 ぼくは唾を飲み込み、慎重に声を絞り出す。できるだけやさしく。
「ちかちゃん……まさか、それで自殺とかするわけじゃないよね?」
 ちかちゃんはぼくの方を見ることもなく、フッと鼻で笑う。
「そんなアホなことするかいな……死んだら終わりや」
「そうならいいけど……なんで包丁持ってるの?」
「なんか切り刻みたい気分なんや。なんでもええから」
 ちかちゃんはちらりとぼくを見る。
 ぼくは精一杯やさしい笑みを浮かべる。浮かべたつもりだが、どうしても頬がひきつってしまう。
 ちかちゃんがゆっくり立ち上がる。包丁をもったまま。
 その座った両目はぼくを捉えたまま。
「ああ、そうだ! ぼくも何か食べにいこう! お腹空いたし! じゃあ、元気出してね!」
 慌ててドアを閉めようとするが何かが挟まっている。さっきのカップラーメンだ。ぼくは動揺してカップラーメンを引き抜く。
 見上げるとすぐ近くまでちかちゃんが近づいてきていた。
 真っ赤に充血した目がぼくを見下ろす。右手はだらりと下がっていたが、包丁はしっかり握られていた。
 ぼくは声にならない悲鳴を上げて玄関を飛び出す。それから慌てて走り出した。うしろでドアの締まる音が響く。
 振り返ると、何事もなかったようにドアが締まっている。
「久留須さん?」
「ひいいっ!」
 突然声をかけられて悲鳴を上げてしまった。驚いて視線を戻すと、目の前に同じように驚いたアカネが立っていた。
「な、何ですか! ビックリするじゃないですか!」
 アカネは思わず落としそうになったコンビニの袋を、しっかりと持ち直す。
「ご、ごめん」
 ぼくは顔の前で両手を合わせてあやまろうとする。そして握りしめていたカップラーメンに気づく。力一杯握りしめたせいか、ドアに挟まれていたせいか、カップラーメンの容器はひしゃげて中身が少しこぼれていた。
 当然アカネは不審な目でそのカップラーメンを見る。
 ぼくはもう笑うしかなく。
 お手上げというようにカップラーメンを掲げてみせた。
 
   くつくつ、くつくつという鍋の音。ほのかに漂ってくる甘いシチューの香り。おもわず唾がにじみ出てくる。もうすっかり空腹だし。
 散らかっているといったわりには、こざっぱりした部屋だった。机の上に食べ散らかしたお菓子の山はあったけど、それ以外は綺麗に整頓されている気がする。
 きちんとバスケットに収められた化粧品。マガジンラックに数冊の女性誌。パステルカラーの棚にはクマのヌイグルミが収まっている。ベッドの脇に置かれた加湿器が微かに音を立てていた。
 一番目を引くのがちょうどテレビデオの横に貼られたモノトーンのA3ポスター。
 小山進のポスターなのは一目でわかった。
 練習場でみせた人なつっこい笑顔ではなく、どこかこちらをキッと睨んだ凛々しい表情。そして上半身裸にクロムハーツのネックレスだけという出で立ちは、男のぼくでも赤面しそうだった。
「小山君のファンなの?」
 廊下に併設されたキッチンの方をみてぼくは尋ねた。
 アカネはピンクのエプロン姿で首だけこちらを向き、真剣な表情で三回ほど首を縦に振った。
「高校の先輩なんですよ。っていってもわたしが入ると同時に卒業しちゃったんですけど……小さな町で……町で始めてJリーガーが出たって英雄扱いだったなぁ。地元の子はみんな小山さんのファンだったんじゃないかなぁ。カッコよかったし」
 シチューをかき混ぜながら、アカネはため息にも似た声をもらす。少し懐かしがるように微笑みを浮かべて。
「うちはね。あまり家庭が上手くいってなかったんです。ドメスティックバイオレンスっていうのかなぁ。まあパパにちょっと問題があって。何か些細なことで暴れ出したりして、ママ、それですごい苦労してた」
 アカネは小皿にシチューをとり、少し味見をする。そして納得したらしく火を止める。
 その間、ぼくは何もいえず。読みもしない女性誌をパラパラとめくって、なんとか間をつなぐのに必死だった。
「こういう話すると、結構男の人ってひっかかりやすいんですよね」
 また顔だけこっちにむけて、今度はイタズラっぽく笑った。
 今の話は嘘?
 ぼくのとまどいを察してか、アカネ誤魔化すように鼻で笑って続ける。
「殴られたりしたわけじゃないんです。パパは人を殴ったりしないんです。物に当たるだけ。それで落ち着くと泣き出しちゃうの、ママはそんなパパをいつも慰めてた。それでね。パパはいつもわたしにいうの『アカネはこんなパパみたいな男にひっかかっちゃダメだ。もっといい男をみつけて幸せになれよ』って。そんなこといわれて『はい。パパよりマシな男を探して幸せになります』なんていえるわけないじゃない」
 アカネは食器とスプーンをまとめてぼくに渡す。それからぼくに立つように促し、はい行きましょう、と明るくいって自分は鍋をもって歩き出した。
 
「それでもそのパパの言葉はずっと心のどこかにひっかかってたらしくて、わたしはすごく恋しやすい体質に育ってしまったみたいです」
 アカネは鍋を手に慎重に階段を降りていく。危ないからエレベーターで行こうと提案したのだけど、一足遅くエレベーターが三階を通り過ぎていったので階段を使うことにした。
「悪く言えば男好き? あはは。そんなんで合コンとかもしょっちゅうだったし、いっぱいいろんな人とつき合ったし――あ、結構モテるんですよ! わたし。あんな風にフラれたのは久留須さんが初めてです――誘っているそばから他の女の子ナンパしにいっちゃうんですから」
「あれは――」
 ただ奈緒があまりに無防備に寝てて、と言いかけて、やめた。確かにあの時はアカネの存在をわずらわしく感じていたのは事実だったし。うしろめたさがまったくないといえば嘘になる。
「でもフラれるのは慣れっこですから。ママと一緒で男運がないんですよ。フラれた時は濃いめのシチューが一番です。なんにも食欲がなくなって、どうでもよくなったとき。あったかいシチューを口にすると、胸の中に空いてた空洞になんか染みこんでいく感じがして。そしてお腹一杯になって寝るのが一番の薬なの」
 フラれた時の気持ち。
 あまりわからなかった。正直、やっと解放されたという思いが強かった。レギュラーをとれなくて、圭悟にポジションを奪われて、必死になっていた。そんな時に、わたしとサッカーどっちが大事なのといわれて、はっきりいってうっとうしかった。それどころじゃねーんだと投げやりに答えてしまった。
 彼女は自分の気持ちばかり押しつけてきて、ぼくの気持ちをわかろうとしてくれなかった。苦しんでいたぼくの気持ち。
 でもぼくも彼女の気持ちを理解しようとしてなかった。
 ピッチの上でも、普段の生活でも、ずっと孤独だった。
 そもそもピッチでも、現実でも、まわりを見ようなんてしなかった。
 自分だけしか見えていなかったんだ。
 アカネの事だって、ただの遊び人だと決めつけていた。だけどアカネはアカネなりに、いろいろと悩みながら生きていると知った。
 まわりに誰がいるのか。
 どんな気持ちやどんな考え方をしているのか。
 何を求めているのか?
 サッカーとわたしどっちが大事なのといった彼女に
 どんなパスを送ればよかったのか。
   
   2
 
 アカネは階段を降りる時よりさらに慎重な足取りで廊下を渡っていく。
 散乱したガラスの破片。放置された包丁。ひっくり返されたマグカップやフライパン。
 後に続こうとしたぼくをアカネが手で制す。
「サッカー選手は足が命なんですよ。ちょっとした怪我でもプレーに影響するんだから。本で読んだ知識だけど。プロなんだから自己管理はしっかりしてください」
「でも女の子に危ない目させといて、ぼくだけ安全なとこにいるってのは」
「あら、紳士なんですね。サッカー選手なんてもっと利己的な人だと思ってた。安心してください。こういう荒れたとこ歩くのは得意ですから。うちがそうだったし」
 アカネはニコリと笑って、再び慎重に足の踏み場を探しながら進んでいく。
 ぼくは仕方なく出しかけた足を戻し、様子を伺うことにした。
「ちかちゃーん?」
 アカネの甘ったるい声が薄暗い部屋に木霊していく。
 返事をしたのは近くを通った車の排気音だけだった。
 突然の光が目を焼いた。
 アカネが明かりを点けたのだろう。
 それによって廊下の荒れ具合がはっきりした。ホントに酷い有様だった。よくこんな所を通って行けたと思う。
 足下に転がる写真立てに目がいった。
 壁に投げつけて割れてしまったと思われる写真立て。
 どっかの中学校の写真立て。
 ジャージ姿で幸せそうな笑顔をみせている少女――幾分ふっくらしていて髪も長かったが、ちかちゃんだとわかった。
 もう一人は同じ中学生だろう。背の高い少年だった。おそらく彼氏だ。坊主頭の爽やかそうな少年。うでにつけられたミサンガをみて、昼間ちかちゃんにもらったミサンガを思い出す。確かポケットに入れっぱなしだった。
「ちかちゃんいないよ」
 部屋の奥からアカネが出てくる。
 どこへ行ったんだろう?
 最後に見たちかちゃんは思い詰めた目で包丁を握りしめてた。
 ふいにさっき入れ違いで昇っていったエレベーターを思い出す。
 死んだら終わりや。
 そう言っていたけど。
 もしかして。
 まさかとは思うけど。
 ぼくは慌てて部屋を飛び出した。そのままエレベーターの前まで走る。
 エレベーターの表示は「R(屋上)」を示していた。
 冗談だろ?
 そんなアホなことしないっていってたじゃないか。
 ぼくは慌てて何度もエレベーターの呼び出しボタンを押す。ちょうどそこに鍋と食器を抱えたアカネがやってきた。
「どうしたんですか?」
「エレベーターが屋上で止ってたんだ。まさかとは思うけど」
 見なくてもアカネの表情が青ざめるのがわかった。
 
 誰かを好きになって、裏切られて、死にたくなることはあるのだろうか?
 相手を殺してしまいたくなるようなことはあるのだろうか?
 それはいつもテレビの中の出来事だった。
 ニュースでやっている痴情のもつれであったり、ドラマの中で描かれる人間関係だったり。
 それでもぼくのまわりではそんな死ぬほど好きになると言う話はなくて、どこか現実離れしたものだった。
 でもぼくは――
 本当のことをいえば――
 圭悟を殺したいと思ったことがある。
 部活が終わって、レギュラー組が帰って、補欠のぼくらで片づけをしていた時。
 真っ赤に染まる夕焼けを見た。
 燃え上がる空にあてられて、ふいに心の奥底で残酷な何かが燻った。
 それは確かに殺意だった。
 圭悟に対する殺意。
 ありあまるほどの憎しみ。
 アイツのせいでこんなにも苦しい思いをしている。
 アイツさえいなければ。
 それはカラスの泣き声と共に一瞬で消え去ったけど。
 一度だけ――
 たった一度だけだったけど
 その一度は確かにあった。
 もしあの瞬間に、ぼくがナイフをもっていて、その場に圭悟とぼくしかいなかったら。
 ぼくは自分を制御できたかどうかわからない。
 理性では押さえられないもの。
 頭ではわかっていても、どうしようもない感情。
 たかがサッカーのこと。たかが部活のこと。
 きっと大人達はそういうだろうし。ぼくもそう思うけど。
 思っていても止められなくなる瞬間があった。
「きっと大丈夫ですよ。女の子って結構強いんですよ。男の子が思ってるより、ずっと」
 ぼくはそうとう思い詰めた顔をしてたのだろう。
 アカネが励ますように無理矢理笑顔をつくってみせた。
 気持ち悪い。
 昇っていくエレベーターの中で、ぼくは酷い吐き気に襲われた。
 だけどいましゃがみ込むわけにはいかない。
 口元を押さえて必死にこらえる。
 吐き気を紛らわすためにエレベーターの回数表示を目で追う。
 ……4……5……
 頭の中がぐちゃぐちゃで、胸が苦しくて、意識が飛んでしまいそう。
 6……7……
 そしてRが点灯した。
 
 エレベーターのドアが開いた瞬間、蒸したような花の匂いが狭いエレベーターの中になだれ込んできた。
 エレベーターを出ると、小さな部屋になっており、様々な機器や掃除道具やバケツなどの物置となっていた。そして開け放たれた出口が屋上へと続いており、その先に匂いの正体があることにぼくは気づいた。
 一面の花畑。
 ガーデニングというのだろうか? とにかく、屋上はまるで空中庭園のようになっており、幾多もの花々が月光を受けて鮮やかに咲き誇っていた。
 マーガレット、チューリップ、クロッカス、アジサイ、ゼラニウム、他にも名も知らぬ花々が屋上を埋め尽くしている。
 そしてその花畑の中央――何かステージのように少し小高くなって、蔦に巻かれたアンテナなどが設置された脇に、ちかちゃんが腰掛けていた。
 ちかちゃんは花々に囲まれ、両腕で膝を抱き込み、じっと夜空を見上げている。
 月明かりに照らされた頬が、白く輝き、涙のあとを遠目にもわかるほどに浮かび上がらせていた。
 とにもかくにも、ぼくはちかちゃんが自殺しそうな雰囲気でないことに安堵感を覚え、肩の力を抜くと共に息を吐き出した。
 その音が夜の静寂に響いたせいか、ちかちゃんはぼくらの存在に気づき視線を向ける。
「なんや?」
 ひどく怠そうな声だった。
「なんやじゃねーよ。急にいなくなったり……ホントに……頼むから……」
 限界だった。
 ビーターでぐるぐるとかき混ぜられたような感情は、ぼくの体中でホイップ状の疲れを産み出し、それらが安堵感と共にとろけ出すようにぼくの力を奪っていった。
 思わず座り込み、そのまま仰向けに寝そべる。
 ああ、星が見える。
「東京でも星が見えるんだ」
「そうや。星はいつもお空の上にあるんや。ただそれが見にくくなっとるだけや。まわりが明るすぎると見えにくくなるんやけど、いつもそこにある。気づかんだけや」
 ぼくは仰向けのまま思わず鼻で笑った。
「なんかちかちゃん詩人だね」
「うるさい。だまれや」
 声色から頬を朱に染めているのが想像できた。
 ふいに「んしょ」という声と共に、横に誰かが寝転がる。首だけ動かすとすぐ側にアカネの横顔が見えた。
「はああ。なんか気持ちいいね。お花畑にいるみたい」
 アカネは両手を空につきだし、小さく伸びをする。
「わびしい空ですが」
「それもなかなか、おつなもので」
 アカネはおどけて答えて、吹き出すように笑う。
「お前らあほやろ」
 口調こそ冷たかったが、見るとちかちゃんは笑っていた。嘲るわけでも、苦笑するわけでもなく。微笑みを浮かべていた。
「ちかちゃんもこっち来なよ」
 アカネが上半身だけ起こして手招きする。
「誰や? ちかちゃんって馴れ馴れしいな……かなわんわ……服が汚れてまうやろ……」
 ブツブツ文句を言いながらも、ちかちゃんはぼくの隣に寝転がった。
「久留須さん両手に花ですね」
「ホンマや。この色男が」
「恐縮です」
 東京の空。
 合宿で見た満天の星空も良かったけれど、こんな寂しい空もそれなりに趣向があって良かった。
 ずっと足下ばかりでは見えなかったもの。
 ぼくは本当に何を見ていたのだろう?
 ピッチの上でも、現実でも。いつも自分しか見ていなかった。
 ピッチの上には二十二人の選手がいる。そしてそれぞれがいろいろな思いを抱いている。
 そして現実の上でも、まわりに多くの人がいる。そして同じようにいろいろな思いを抱いて生きている。
 当たり前のことだ。
 わかりきったことだ。
 だけどどうしても忘れがちになる。
 自分だけしか見えなくなって、他人を全てアイコンにしてしまう。まるでゲームか何かのキャラクターのように薄っぺらい存在へと。
 いつからだろう?
 チームメイトをただの左サイドバックやディフェンシブハーフとしかみなさなくなったのは?
 子供の頃は、ヒロシやタクミや圭悟といった存在であったもが、ただのポジションになってしまったのは?
 ただのクラスメイト、ただの担任、ただのバイト仲間。だけど彼等にもそれぞれ名前があり、それぞれ誰かの恋人であったり、誰かの親であったり、誰かの友達だったりといろいろな顔をもっている。
 ぼくをないがしろにし続けた麻生監督。だがぼくは彼の考えを知ろうとしたことがあっただろうか? 彼と話そうとしたことがあっただろうか?
 答えは否だ。
 ただぼくは麻生監督に対して陰口を叩いたり、愚痴をこぼすだけだった。
 もしもう一度チャンスがあるなら。一度聞いてみたい。
 何故ぼくは使われなかったのか。
 ぼくに何が足りなかったのか。
  
   3
 
 ふいにお腹のなる音がした。
 横を見るとちかちゃんが赤面している。
「食欲なんかあらへんのに。おかしいわ」
「そうだ! シチュー食べましょう!」
 アカネが起きあがって言う。そして脇に置いてあった鍋をとりだす。
「久留須さん。お皿とってきてください」
 なんでぼくが、と思ったが、実際ぼくも空腹だったので素直に従った。
 エレベーターで一階まで戻り皿とスプーンをとってくる。それからふいに引越祝いのういろうを思いだし、部屋に戻ってういろうをとってくる。
 屋上に戻るとアカネが開口一番に「遅いですよ。冷めちゃいますよ」と頬を膨らませた。あいかわらずの可愛い子ぶった態度だったが、慣れてくれば逆に彼女の個性のようにも思えてきた。
 それからぼくたちはシチューをより分けて、寂しい星空を見上げながら口にした。
 ぬるくなってはいたが、濃いめのシチューは食欲をかきたてた。ぼくは流し込むように一杯目を空にした。
「おかわりします?」
「ああ、お願い」
「いっぱい食うたらええ。サッカー選手はフィジカルが大事や」
 ちかちゃんも食欲がないとはいっていたが、順調に口に運んでいた。
 ぼくは思い出したようにういろうの箱を差し出す。
「これ引越祝い」
「ん」
 ちかちゃんはシチューをコンクリートの床に置き、包装紙を無造作に破り捨てて箱を開ける。
「ういろうか」
「ういろうです」
 ちかちゃんは備え付けのプラスチック製のナイフで一口大に切り離し、口に放り込む。
「甘いな」
「甘いでしょう」
「シチューにはあわん」
「そりゃそうだ」
 そういいつつぼくも一口いただくことにした。
「アイツも同じ月みとるんやろか」
 ちかちゃんがふいに夜空を見上げていった。
 満ちかけた月が、鮮やかに光を放っている。
 まぶしいくらいだ。
「同チューやってん」
 同じ中学という意味だ。
「サッカー部のエースやってん。うちはマネージャー」
「あ、いいなそういうの」
 アカネが口を挟みながらういろうを切り分ける。
「アイツこないだ大阪選抜とかにも選ばれてん。でもうちは知らせてもらわれへんかった。なんや忙しいんやと」
 すごく身に覚えのある言葉だ。なんとなく人事に思えない。
「もう一年もあってへんのに、たまにメールしたらこれや。喧嘩になってもうてな。最後は『うざい』とかいわれてもうた」
 ちかちゃんは、ふんと鼻で笑い飛ばす。
「ヒドーイ! サイテーですよね。久留須さん」
「あ……う、うん」
 似たような事を言ったことがあるとは言えない。
「遠恋はキツイわ」
 ちかちゃんはゆっくりと重く深い息を吐き出した。
「でもまだ好きなんや」
 ぼそりと告げた言葉が夜空に消えていく。
「どうしようもないのはわかっとるのに、気持ちだけはどうにもならへん」
 涙が頬を伝う。
 ぼくは何か言葉をかけようともって口を開きかけたが、アカネがそれを目線で制す。
 何も言葉は要らないと。
 ぼくは少しだけ迷って、素直に頷いた。
「好きなんや」
 囁くようなちかちゃんの声を最後に、長い沈黙がおとずれた。
 花はただ月明かりに照らされ、音もなく揺れている。
 夜景の彼方から、車の走り去る音だけが響いてくる。
 空気が少し肌寒い。
「図書室の掃除をしてたの」
 アカネが唐突話し出した。沈黙を破るというよりは、しずかにレコードに針を落とし、BGMでもかけたかのように自然と。
「初恋の人が図書委員で、わたしも同じ図書委員になったの。それである日ひとりで図書室の掃除をしてたんだけど……ふと窓の外をみたらすごい綺麗な空で……で、わたしは何を考えたのかほうきにまたがったの……今でもどうしてそんなバカな事をしたのかわからないけど……ちょうどその瞬間、図書室のドアが開いて初恋の彼が入ってきた。すごい驚いた顔でほうきにまたがったわたしを見て、静かに後ずさりしてドアを閉めた。それから教室で会っても、お互い気恥ずかしくて、一言も口をきけなくなったんです。そしてわたしの初恋は終わっちゃったの」 
 ぼくはほうきにまたがったアカネを想像して、思わず吹き出してしまう。
「笑わないでくださいよ! ホント、立ち直れないくらい落ち込んだんですから!」
「アホやな」
 ちかちゃんも必死で笑いをこらえているようだった。
「久留須さんは? どんな初恋だったんですか?」
 アカネは頬を膨らませながら尋ねてくる。
「ぼくは……」
 お酒なんて飲んでなかった。
 だけど自分が何でこんな事を話そうとしているかわからなかった。
 ただ自然と言葉があふれ出てきた。
「大好きな奴がいたんだ」
「ふむふむ」
 アカネが身を乗り出してくる。ちかちゃんも頬杖をついたものの、しっかりと耳を傾けている。女の子というのはどうしてこういう話が好きなのだろうか?
「だけどそいつはどんどんぼくから離れていった……」
「遠恋ですか?」
「いや、精神的にさ」
 ぼくはそれから深呼吸するように深く息を吸い込んだ。この先の言葉を吐き出すには、大変な力を必用とする気がしたからだ。
「どんどん離れてくアイツをぼくは必死で追いかけた。だけどどんだけ必死に追いかけても追いつけなくて……イライラして……気がついたら離れていったアイツを憎むようになってた……殺したいとすら思ったんだ……側にいて手をつないで歩いていたのに、気がついたらずっと遠くに行ってた。だからぼくは全てから逃げることで、惨めだったり、悲しかったりする感情を消し去ろうとした」
 ぼくはちかちゃんを見る。
 ちかちゃんは眉間に皺を寄せて怪訝な表情をつくる。
「だけど気づいたんだ……ぼくもやっぱりアイツが好きなんだって」
 アイツは一度だって裏切ってなんかいない。
 アイツなりのやり方で進んでいった。
 ぼくはただそれに追いつこうとせず。
 先行くアイツに
 自分と歩調を合わせてくれなかったアイツに
 嫉妬した。
 圭悟に嫉妬した。
 すぐじゃなくてもいい。
 いつか追いつければ。
 ぼくはぼくのペースで。
 そこへたどり着ければいい。
 それは夢。
 それは約束。
 同じピッチの上に立つという。
 圭悟の立つあの場所へ。
「そうや。好きなもんはしゃーないわ」
 ちかちゃんが笑う。
 アカネも微笑み頷く。
 嫉妬も、憎しみも、怒りも、悲しみも、全部受け止めようと思う。
 ぼくの中から生まれた醜い全てを。
 目を背けずに。
 
 いくつかバカな事を話しているうちに、視界の片隅で明るくなる空の一部を捉えた。
 気がつくと三人が三人とも、無言でその光景を目で追っていた。
 ゆっくりと明けていく空。
 新しい一日の始まり。
 花開くいくつかのつぼみ。
 生き返る。
 その生命力。
 花々の生命力。
 ぼくの中にある生きる力。
 きっとぼくらは何度でも生き返る。
 憎しみや悲しみに打ちひしがれながらも、生きる力がやがてそれらを全て飲み込み緩和し、穏やかな静謐へと還元していく。
 そうやってぼくらは日々を乗り越えていく。
 苦しみに満ちた夜に涙する。
 それでもぼくらは朝が来るたびに生き返る。
 また今日という日を生きるため。
 ちょっとだけ強くなって。
 ぼくは生き返る。
 
 サッカーがしたいな。
 ふいにそんな思いに駆られた。 
 試合じゃなくていい。
 ただ無心にサッカーボールを蹴りたかった。
 朝焼けのどこかの公園で
 ゴール数も、プレーの精度も忘れて
 ただ走り回って
 ボールを蹴りたい
 楽しむためだけに
 そして――
 できるなら――
 
 圭悟と一緒に。
  
            
       



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