XII−NO.12の戦士達−

第四節 シーラカンス
 
  
    第四節 シーラカンス
  
  1
 
「壁凪、ちょっとお前二列目でやってみろ」
 暮れかかった空の下、麻生監督の声が響いた。
 名古屋空港へと帰っていく飛行機の音。工場が上げた煙。頬を流れる汗。レギュラー組に加わってボールを蹴る圭悟。夏の午後に漂う運動場の匂い。
 全てが鮮明だ。
 ぼくの全てが失われた瞬間。
 あれから二年半が過ぎた。
 今ぼくの目の前で、凍りついた運動場が春の息吹を受けて、少しずつ目を覚まそうとしている。
「久留須、聞いてるのか!」
 よそ見していたぼくの横面に、麻生監督の声がぶつかる。ぼくはあわてて彼を見た。
 麻生雅弘――現役時代には日本代表にも選ばれたことのある左サイドのスペシャリスト。運動量とねばり強い守備、そして持ち前の戦術理解度を生かしたタイミングのよいオーバーラップ。もし当時の日本代表が4バックを採用していたなら確実にレギュラークラスといわれていたらしい。残念ながら3バックのチームに彼の居場所はなかった。
 歳月を経て、高校生を指導する体育教師となった麻生監督は、さらに戦術理解に磨きをかけ、弱小だった東城高校サッカー部を五年で全国優勝へと導いた。
「――つまりだ。プロの世界を甘く見るなって事だ。実力だけじゃどうにもならんことや、理不尽なこともある。別にプロサッカー選手に限った事じゃなく、それが社会ってもんだ。今まで以上の努力と精神力が必用になってくる。怠った奴は消えていくだけだ。それがプロの世界だ。それを忘れるな」
 四人の生徒が「ハイ」と威勢のいい声をあげる。当然、その中にぼくも含まれていた。
 ボランチの茂田誠吾、ワントップの江藤佐助、右ウィンガーの樹里敬一。この三人に圭悟とぼくを含めた五人が今年J入りを決めた。
 そして卒業式のあと、麻生監督から激励の言葉を受けるという名目で四人が集められた。
 圭悟は今はユースの大会に出ていて、一週間後にひとりで卒業式をするらしい。
 麻生監督から解散という言葉が投げかけられて、みんなそれぞれにクラスメイトのちころへ戻っていく。
「久留須」
 あとに続こうとしていた、ぼくの背中に麻生監督の声がかかる。
 ぼくは多分、ひどく冷たい目で振り返っただろう。
 だが麻生監督がまっすぐにぼくの冷たい視線を受け止めたため、逆にぼくが目を反らせてしまった。
「お前の身体能力は天性のものだ。それは十分プロでも通用するだろう。しかしお前のプレーには無駄が多すぎる。いつもやりすぎるんだ。いいかそもそもサッカーはゴールを奪うのが――」
 はは、何を言い出すんだ? この人は。
 三年間ほったらかしにしておいて、今さらになって指導しようというんですか?
 ああ、そうか、もしぼくが活躍したりしたら教え子だって自慢できるからか。あの時の俺のアドバイスを聞いたから、今のアイツがあるんだよって。
 保険をかけてるわけだ。
 自分が才能を見逃したわけではないと。
 そしてぼくに言わせたいんでしょう?
 最後に麻生監督に言われた言葉があったからこそ、今のぼくがあるんです、と。
 遅すぎるんですよ、麻生さん。
 何もかもが遅すぎる。
 もうぼくの三年間は帰ってこないんだ。
「監督。ぼくちょっと急ぎの用があって」
「ん? そうか。とにかくプロでやってく以上、今まで以上の努力が必用だってことだ。それを忘れるなよ」
「はい」
 そんなこと今さら言われなくてもわかってる。
 そして努力したって報われないことも。
 ぼくはもう十分に厳しさを味わいました。あなたの手で。
 だからきっと大丈夫です。
 心配しなくても、あなたのすごさはきっと圭悟が証明してくれますよ。
 あなたが圭悟のトップ下の才能を見いだしたんだから。
 イライラする。
 卒業証書の入った筒を手に笑っているクラスメイトも、両手いっぱいに花束をもらって涙を浮かべている先生にも。とにかくここから早く出て行きたかった。
 三年間、ぼくを閉じこめていた檻。
 ぼくがここで失った三年間は何物にも代え難い。サッカー選手にとって大事なこの時期の三年間。
 やっと解放されるんだ。
 
 荷物をまとめていると、やたらと母が話しかけてきた。月に一度は連絡しなさいだとか、火の元には気をつけろだとか、あげくにはプロの世界は甘くないだとか……あんたがプロの世界を知ってる分けじゃないだろうに。
 父は何も言わない。昔から放任主義な人だ。ただ黙ってテレビを見ている。
 住み慣れた家だが、ここでの生活に未練がある分けじゃない。
 古い市営団地の一部屋。
 毎年夏には目の前の河川敷で花火大会があり、通路に出るだけで特等席を確保できた。売りはそれくらいで、あとはいたって普通の団地。
「三汰、覚えてる?」
 風呂上がりのぼくに、食器を洗っている母が尋ねてきた。
「サッカーボールを始めて買ってもらった時のこと」
「ううん」
「おとうさんが会社のつき合いか何かでトヨタカップを観に行って、その帰りに興奮してユニフォームとボールを買ってきたの。この子をなんとかって外国人みたいにするぞって。まだ二歳だったあなたにボールを蹴らせたりして」
 ああ、部屋に飾ってある古びたミランのユニフォームはその時のか。たしかファン・バステンの名前が入っていた。ぼくがファン・バステン? そりゃ父も大きく出たもんだ。
 ぼくはちょっと笑った。母はそれをみて満足げに微笑んだ。
「まあ、ある意味父さんの願いが叶ったってことね。がんばりなさいよ」
 父の背中をみる。ずっとテレビを観たままだ。いつも朝早くに家を出て、夜帰ってきて、テレビを観て、寝る。そんな父しか知らない。
 最近はサッカーの話もしない。
 父がサッカーが好きなのかどうかもわからない。
 ナイターをみたり、オリンピックをみたりと、スポーツならなんでも観るタイプの人だ。当然サッカーもそのうちのひとつだろう。Jリーグはみなくても代表戦はみる。
 ぼくがいなくなっても父の生活のリズムには何の関係もない。
 今までだっていてもいなくても同じだったに違いない。
 ぼくが出ている試合くらいみてくれるだろうか? そもそもJ2の試合を観るには衛星放送にでも加入しなきゃならないんだけど。
 多分、観ないだろう。
 中学の時の県予選の準決勝すら観に来なかったし。
 
 自分の部屋に戻る。いろいろと荷物をつめこんだ段ボールが乱雑に積み上げられていて、明日引っ越し会社の人が取りに来ることになっていた。
 ふと、壁に貼られたミランのユニフォームが目に入る。
 ぼくは錆びかけた画鋲のひとつひとつをゆっくりとはがす。ユニフォームが長年の束縛から放たれると同時に、長年つもった埃も解放され、ぼくは思わず咳き込んだ。
 埃まみれで色あせたロッソネロのユニフォーム。ぼくはそれに袖を通し、鏡の前に立ってみる。
 ちょっと小さいなぁ。
 そう思いつつも、変な高揚感を覚えた。
 ファン・バステンが舞った国立競技場。
 ぼくはそこに立てなかった。
 ぼくはもうすぐファン・バステンと同じようにプロの世界に立とうとしている。
 なのにとても彼とぼくが同じ舞台に立つとは思えなかった。
 ファン・バステンはとても遠い存在で、ビデオで数回観ただけのプレーヤー。
 同じ舞台に立つなんて想像できない。
 だけど圭悟なら想像できる。
 あの光に照らされたピッチの上で躍動する圭悟なら、やすやすと想像できる。
 彼等とぼくを隔てているものはなんだろう?
 才能?
 運?
 ぼくはプロになるという自分がどうしても想像できない。
 こうしてレプリカのユニフォームを纏っているのが限界だと思った。
 なのに。
 もうすぐぼくはプロになろうとしている。
 いや、契約を交わした以上もうプロだ。
 ドキドキする。
 不安なのか、期待なのか、わからない。
 ただドキドキした。
 あのファン・バステンやストイコビッチも、最初はこんな想いをしたんだろうか? 
 それとも当然のことだと冷静に受け止めていたのだろうか?
 そして圭悟はどうだろう?
 ぼくは本当にプロになっていいのだろうか?
 
     2 
  
 東京は銀座の西、京橋駅を降りて三分ほど月島方面に歩いた先に、ぼくの新たなる住処――パイレーツの宿舎がある。 
 宿舎といっても、ごくごく普通のマンションで、どこにも「パイレーツ」という文字は書かれていない。 
「ここは月島やったころからなんも変わらへん。あのオーナーさんはスタジアムや宣伝には金かけても、選手のためにはまったく金かけへん。まあ、金稼いどる選手は、みんな近くの高級マンションに引っ越してもうたんやけどな」 
 部屋に向かう途中、うしろから中学生くらいの女の子が何かと話しかけてくる。ぼくが訝しげな視線を向けると、彼女はぼくに鍵を突き出してきた。 
「これあんたの部屋の鍵」 
「どうも」 
 なんでこの子が鍵を持ってるんだろう? 女の子はぼくの表情からその胸の内を読みとったのか、少し上目遣いに笑みを浮かべて答える。 
「うちはこのマンションの大家のちか。『ちかちゃん』って呼んでもええけど、『ちか』って呼び捨てたら殴るで。グーで。まあ、なんか問題あったらうちに言うてや」 
「大家?」 
 こんな中学生が? 
「ホンマはここのオーナーばあちゃんやねん。けどおばあちゃん最近海外旅行にはまっててな。今頃、ルクセンブルクにおるんとちゃうかな? そんでその間、うちがバイトしとんねん」 
 ちかちゃんは長く伸びた前髪を掻き揚げる。 
「とりあえず荷物は部屋の中に運んでもろうた。あとは自分でどうにかしてや。なんか他に聞きたいことあるか?」 
 なんだかちかちゃんはとても面倒くさそうだ。ちょうど泣きぼくろのある辺りを人差し指で掻きながら、あくびを我慢したらしく口元と眉間をゆがめ、軽く涙目になる。 
「特には……あ、グラウンドまでどう行ったらいいかわかる」 
 ちかちゃんはニヤリと笑ってキュロットのポケットからメモ帳の切れ端をとりだす。 
「みんな最初は同じことを聞くんやな。用意しといてよかったわ。これグラウンドまでの地図や」 
 手書きの地図はちょっと可愛らしい丸文字で書かれていた。しかもハートマークや花のマーク、ちかちゃんの簡単な似顔絵などまでかかれている。おかげでとても見づらい。 
「あとこれ」 
 ちかちゃんはカラフルに何色もの糸でつながれた輪っかを差し出す。 
「ミサンガや。知っとるやろ? 切れたら願い事が叶うんや。選手のみんなにくばっとる」 
 ぼくはミサンガを受け取る。そういえば圭悟がいろんな女の子にもらっていたなぁ。 
「うちもパイレーツファンやねん」 
 ちかちゃんは柔らかに微笑む。 
「やから、もし今年最下位やったら家賃値上げするで。覚悟して試合しいや」 
 と柔らかな笑顔のまま去っていった。 
 ここの家賃って給料から差っ引かれるんだっけ?  
 あの子にそんな権限があるのだろうか? 
 ちかちゃんが去っていってから、ぼくは腕にミサンガをつけた。それから軽く荷物を整理して、夕食を食べに出る。 
 あ、どうせならおいしいお店とか聞いておけばよかった。 
 マンションを出る際に管理人室で勉強しているちかちゃんを見かけたので声をかける。 
「ねー、この辺でおいしいお店ってどこ?」 
「夕飯?」 
 ぼくは頷く。 
「夕飯はうちがつくるんや」 
 ちかちゃんはそう言いながら、先程まで勉強していた参考書の表紙をぼくにみせる。それはスポーツ栄養士の参考書だった。 
「月島時代からの習慣でな。ばあちゃんが選手のご飯つくっとってん。八時から九時までの間に103号室に来てや。一秒でも過ぎたら一週間メシ抜きや。そんでいらん時はこの箱に名前と部屋番を書いていれといてや」 
 ちかちゃんは窓口にあるポストを開く。中から数枚の紙切れが出てきた。 
「あー、また夕飯いらん人が増えとる! なんやねん! むかつくわー! 人が一生懸命つくっとるのに!」 
 とばっちりを喰らわないうちに退散しよう。 
 ぼくはそそくさとマンションを出た。 
 そしてさっきもらったグラウンドまでの地図をとりだす。 
 どのくらいあるだろうか? 
 せっかくだからランニングを兼ねて走っていこう。 
 すでにチームの練習は始まっている。ぼくの参加は明日からだけど、その分遅れをとっているはずだ。 
 取り戻さないと。 
 初めが肝心なんだ。 
 今度こそレギュラーをとらないと。 
  
 月島グラウンド。 
 なんだかとてもプロの施設には見えない。 
 町中にあるちょっと設備の整った運動場といった感じだ。入り口にはまだ「シーメンズ月島」の看板を見つけることが出来た。 
 あの台場ブルーパークの最新設備と巨大さに比べると、なんともチンケなグラウンドに見えた。 
 あのオーナーさんはスタジアムや宣伝には金かけても、選手のためにはまったく金かけへん。 
 ちかちゃんの言葉を思い出す。 
 ただ、それがどうしても設備だけの問題に見えなかった。 
 そこで練習している選手達にまったく覇気が感じられない。 
 どうやら紅白戦をしているようだが……なんというか……遊んでいるようにしかみえない。 
 センタリングを上げる選手。それがそのままゴールラインを割っていく。センタリングをあげた選手はわらって誤魔化す。他の選手も誰も責めたりせず、笑っている。 
 そして面倒くさそうにボールをとりにいき投げて返す。それを他の選手が足で受けようとするが、トラップミス。また上がる笑い声。 
 これが本当にプロの練習? 
 東城高校の部活のほうがずっと厳しいし、真剣さが伝わってきた。 
 多分こいつらと東城のサッカー部が戦ったら、東城が勝っちゃうんじゃないだろうか? たとえ圭悟抜きでも。 
 これだったらぼくでもプロでやってけそうだ。 
 その時、グラウンドの横でタバコをふかしている神楽監督と目があった。 
 やばい。 
 いや、何もやばくないはずなのに、なんか見つかってはいけない人に見つかった気がする。 
 神楽監督が人差し指を立てて、ぼくに来いと指を動かす。 
 今さら引き返すわけにもいかず。ぼくはグラウンドに入っていった。 
「走ってきたのか?」 
 ぼくの様子をみて神楽監督が尋ねる。ぼくは頷き答えた。 
「なんか体がなまってて。ついでだったから」 
「じゃあついでに参加するか」 
「へ?」 
 神楽監督は手を叩いて紅白戦を止める。 
「成島! こいつと替われ!」 
 さっきセンタリングをミスしてヘラヘラしていた選手が呼ばれる。 
「えー、簡単に紹介する。今度我らがパイレーツに新加入した久留須三汰だ。選手権優勝の東城高校出身で、あの壁凪圭悟が認めた男だ!」 
 選手達の視線がぼくに注がれる。 
 なんてことを言うんだ! この人は! まるでぼくが圭悟並の選手みたいじゃないか! 
 当の本人は、しれーっとタバコの煙を吐き出す。 
「さっさと入れ」 
 やるしかないか。 
 ぼくはため息を吐く代わりに、短く息を吐き出し、体中の筋肉を引き締めた。 
 
  3
 
 空気が静かにぼくのまわりを通り抜けていく。
 どくん、どくん、胸が高鳴る。
 落ち着け。
 たかが練習じゃないか。
「やあ、新人」
 銀髪の男が話しかけてくる。小柄で百七十もないんじゃないだろうか?
   どこかで見た気がするけど思い出せない。
「俺は小山進」
「ポジションはボーカル」
 アフロヘアの男が後ろからニヤニヤと笑いながら言葉を挟んできた。
「うっせーよ! アキ」
 ボーカル……ああ、そうか。スタジアムだ。コンサートをやるとかいってたけど結局見なかった。けどスタジアムを出て行く時に、ファンの女の子が小山の顔がプリントされたうちわを持ってたっけ。それでどっかで見たと思ったんだ。
「新人」
「はい」
「お前ポジションどこなの?」
「……トップ下です」
 すぐに答えづらかった。そのポジションでプレーしていたのは三年も前の話だ。今の定位置はベンチか応援席。
「ふーん、福田さんのポジションか。ちょうどいいや。今俺らの方はそのポジションあいてるから、そこ入れよ」
「はい」
 ぼくはとまどいを覚えつつもピッチの中央へと向かう。
 すごく懐かしい。
 チームの中心となるポジション。
 三百六十度開かれた場所。
 視線を上げるとビブスを着た選手たちがぼくを品定めするように見ている。
 ぼくは相手となる彼等を観察する。誰もがさすがプロだというだけあっていい体つきをしている。
「あそこにちっこい奴いるだろ?」
 小山が指さした先に、さらに小山より小柄な選手がいる。ひょろっとした体つき、とても美男子にはみえない普通の顔、どっかの中学生が迷い込んだようにしか見えない。
「あいつが福田茂。シーメンズ時代からずっとトップ下をやってる奴だよ。つまりお前のライバルだ。負けんなよ」
 シーメンズ時代から……だから美男子じゃないのか。
 そうこう考えているうちにゲームが始まっていて、さっそくその福田にボールがわたる。
 ちょうどぼくの目の前。
 ライバル対決という小山の言葉が頭に響いた。
 だか福田は何もしかけようとはせずに、簡単に左サイドへとボールを展開した。ぼくは拍子抜けしてしまう。
 さっそくプロのプレーのすごさを目の前で見られると思ったのに。
 振り返るとサイドに展開されたボールがゴール前へと折り返される。それをさっきアキとか呼ばれていたアフロヘアーが奪う。
 アキと目があった。
 パスが来る。
 ボールが地を這って正確にぼくの足下へ。
 ぼくは丁寧にインサイドでボールをトラップする。
 重いなぁ。
 重いボールだよ。
 視線を上げる。ぼくに向かってつっこんでくる選手が見えた。
 むやみに突っ込んでくる雑なプレーだ。
 軽くボールを蹴り出す。
 ボールは真っ直ぐ向かってきた相手の股の間を簡単に抜けていった。
 ひとりの選手を抜くとゴールに向かって広大なスぺースが空いていた。
 ぼくはそのスペースを駆け抜ける。
 小山がディフェンスラインの裏を目指して飛び出していくのが見えた。すごいスピードだ。だがさすがに相手もチームメイトだけあって小山のスピードを警戒してカバーできるポジションをとっている。
 それならばとぼくは小山と逆方向に走り出す。ディフェンダーがぼくの方へ集まってくる。そして右のサイドライン際を金髪の外国人が走り抜けていく。
 ディフェンスの意識がその外国人に集中した。ぼくはその外国人にパスをだすようなキックフェイントをみせる。ディフェンスがカバーのため左サイドへ走り出すのが背中で感じられた。
 ぼくについているディフェンスが一枚。外国人のカバーに走り出した選手が一枚。小山についているディフェンスが一枚。
 中央が完全に空いた!
 ぼくは外国人にパス出すように振り上げた足を戻すと同時に、その踵で中央にボールを送り込む。
 完璧なパスだと思った。
 振り向いた瞬間にネットが揺れているはずだ。
 そしてガッツポーズをみせる圭悟に――
 圭悟はいない。
 誰も感じなかったぼくのパスは、そのまま無人のスペースを通り抜けてゴールキーパーの手元へ。
 仕方がない。
 ぼくのプレースタイルは誰も知らないんだ。
 これからぼくに合わせてくれればいい。
 ぼくのプレーを理解してくれれば。
「気をつけろよ。シーラカンスに噛みつかれるぞ」
 小山がぼくの横を通り過ぎる際、真顔で告げた。
 シーラカンス?
 なんだそりゃ?
 そういうあだ名のプレーヤーだろうか?
 まあいいや。
 ぼくはぼくのプレーをするだけだ。
 外国人が相手選手のパスをインターセプトする。そしてそのままぼくにボールを渡す。さっきのプレーを見たせいかぼくにもマークがついていた。ベテランの選手だろうか? 三十代くらいのがっしりした選手だ。
 ぼくは彼にボールを奪われないように、彼とボールの間に自分の体が挟まるようにトラップする。
 パスコースを探そうと首を巡らせた瞬間。
 空が見えた。
 鮮やかな茜色の空。
 そして背中に衝撃を受け、息が詰まる。
 タックルされた?
 こんな真後ろから?
 怪我でもしたらどうすんだ?
「大丈夫か? ハンサム」
 茜色の空をバックに、さっきのベテラン選手がぼくを覗き込む。そして引き起こそうと手を差し伸べる。
 ぼくがその手をとると、すごい力で引き起こされた。
「顔がいいだけで活躍できる世界じゃないぜ」
 ベテラン選手はニヤリと笑い、握りつぶさんばかりの力でぼくの手を握る。ぼくが顔をしかめると同時に手を離し、何食わぬ顔で去っていった。
 彼がシーラカンスと呼ばれるプレーヤーなのだろうか?
 ベテランだから?
 彼のラフプレーに気をつけろという意味だったのか?
 呆然と立ちつくしていると、脇腹に鈍い痛みを感じた。ぼくはたまらずうずくまる。目の前を福田が通り過ぎていく。若干突き出された彼の左肘。あれがぼくの脇腹をえぐったのだろう。
 わざと狙ったのか?
「だから気をつけろっていったのに」
 小山が銀髪を振り乱しながら近づいてくる。
「シーラカンスってどういう意味なんですか?」
 フリーキックのためにボールをセットする小山。ぼくはその背中に向かって尋ねた。
「シーメンズ時代からいる選手たちのことさ。あいつらは俺らのこと気に入ってないからさ。顔がいいだけであいつらの仲間から仕事を奪った選手だと思われてる。だからポジションのかぶる選手が現れると、あいつら総出で潰しにかかるんだ。それで何人やめてったか……」
 たしかに必死でサッカーをやっている連中からみたら、ルックスだけでレギュラーの座を奪われたら面白くないだろう。
 だからといって、こんな仕打ちをされる覚えはない。
 ぼくだって必死なんだ。
「つまりルックスだけじゃなく、プレーで示せばいいんですよね」
「あ?」
 小山が振り返る。
 それと同時にぼくは駆け出した。
 そして小山のセットしたボールを思いっ切り蹴飛ばす。
 ボールは中途半端に作られた壁へと一直線に――そしてさっきのベテラン選手の顔にめり込んだ。
 倒れるベテラン選手。
 軽くはね上がるボール。
 ぼくはそのボールの落下点へと走り込む。
 右側から向かってくる福田を右手でなぎ倒しながら、落下するボールに左足の甲を当てる。 
 ボールはゴールの左隅へと飛び、ゴールキーパーが一歩も動けないままネットを揺すった。
 見たか!
 あんなラフプレーでぼくを意気消沈させられると思うな!
 突然、胸ぐらを掴まれる。
 小柄な福田がぼくに憎悪の表情を向けて言葉を吐き出す。
「テメー、どういうつもりだ! 今わざと岩井さん狙っただろ」
 岩井とはさっきのベテランのことだろう。顔を押さえながら立ち上がろうとしている。
「壁のギリギリを狙っただけですよ。いいがかりはやめてください。それに報復行為は即レッドカードですよ」
「なめた口ききやがって」
 福田のこぶしが握り込まれる。
 殴られる!
 ぼくは目を閉じて歯を食いしばる。
「あー、やめやめ。終了だ。シューリョー」
 暗闇に神楽監督の声が響いた。
 ゆっくりと目を開けると、神楽監督が福田のこぶしを掴んで押さえていた。いつの間に現れたのだろう? さっきまでピッチの外にいたと思ったのに。
「そういう闘争心は来週の親善試合までとっておけ。それとも今発散して来週お休みしたいなら別だけどな」
 福田は憎悪の視線をぼくから神楽監督にうつす。しかし神楽監督はビクともしない。
 格が違うと思った。
 神楽監督が放つ威圧感。それに思わず引かされてしまう福田。
 福田は唾を吐き捨てると、神楽監督の手を振りほどきビブスを脱ぎ捨て去っていく。
 ベテランの岩井もぼくを睨みながら後に続く。
 小山はぼくに向かって「お前無茶すんなー」と笑って、後かたづけへと走り出した。
 神楽監督の吐き出した煙が、ゆらゆらと茜色の空に上っていく。
「なんだあのプレーは」
 冷たい視線がぼくに向けられる。今度は福田に代わってぼくがたじろかされる。
「少しいきすぎましたけど……ゴール決めたからいいじゃないですか」
「それじゃない。最初のプレーだ」
 最初のプレー?
 ああ、ヒールで中央に折り返したやつか。
 あれは最高のパスだった。
「あれは……あのスペースに誰か走り込んでいれば」
「誰が走り込むんだ?」
 誰が?
 誰でもいい。
 プロならあのスペースくらい見つけられるだろう。
 圭悟なら確実に走り込んでいた。
「いや、誰が走り込めた? あのピッチにいた選手の中で、全員があのスペースに気づいたとして、全力で走り込んで、あのパスに追いつけた選手がどこにいた?」
 誰が?
 どこにいた?
 知らない。
 知ろうともしなかった。
 だって、いつもスペースにパスを出せば――
 そこに圭悟がいた。
「もう壁凪圭悟はお前を助けてくれないぞ」
 見透かされた!
 顔が火照るのがわかった。
 ぼくは――
 いつから圭悟に依存していた?
「お前は中学の頃から何も変わっちゃいない。ビデオを見させてもらったが、お前のパス成功率は40パーセント程度だ。そして壁凪圭悟へのパスを除いたら――たったの十パーセント。壁凪圭悟がいなければ、十回蹴って九回は届かないパスだ」
 あの華やかだった中学時代。
 自分の力が最高に引き出せていたと思っていた中学時代。
 あの時から圭悟に助けられていた?
「お前のやってるプレーはたしかにテクニカルでトリッキーだ。だが仲間に通らなければ、ゴールにならなければ意味がないんだ。水族館でオットセイが曲芸しているようなもんだ」
 震えた。
 くやしくて震えた。
 神楽監督の厳しさではなく。
 ぼく自身の甘さ。
 圭悟頼りだった事実。
「サーカスじゃなくてサッカーをするんだ。もっと仲間を見ろ。いつまでも独りよがりな、さっきのフリーキックみたいなプレーが通用すると思うな」
 神楽監督はそれだけ言って踵をかえす。
 置き去りにされたぼくは、ただこぶしを強く握りしめるしかなかった。
 強くなりたい。
 もっと上手くなりたい。
 この壁を――
 ぼくとピッチを隔てる大きな壁を――
 打ち破れるほどの力が欲しい。
「おーい」
 顔を上げると神楽監督がぼくに向かって手を振っていた。
「来週の親善試合はグランパスが相手だからなー」
 神楽監督は遠目にもわかる意地悪な笑みを浮かべ、クラブハウスへ消えていった。
 グランパス。
 憧れの赤いユニフォーム。
 そしてそれを纏った壁凪圭悟。
 ぼくは肩にはいった力を抜くように、ゆっくりと熱い息を吐き出した。
 そしてぶるっと震えた。
 
「それはデッドスペースだな」
 ドレッシングルームで小山がスパイクを脱ぎながら言った。
「よくあるだろ? テレビで試合とかみてると、あそこにスペースがあるのにとか、今アイツがフリーなのにとか。でも実際にピッチに立ってみると、距離感が違ったり、今自分がどういう体勢でどの位置にボールがあるかですぐにパスが出せなかったりする。逆にスペースに走り込まなきゃいけない選手もマーカーとの関係からそこのスペースが見えなかったり、進路を妨害されてたりする。つまり存在するんだけど使えない――死んだスペースだ」
「デッドスペースなんて始めて聞いた」
 ぼくは素直に感嘆の眼差しをむける。
「まあパイレーツでしか使わない言葉かもな。なんせ昔いたシーメンズ時代の名選手が言い出した言葉で、その選手はそのデッドスペースを使うのが上手かったとか……」
「死んでるスペースを使う? どうやって?」
「さあ? 俺も聞いたことしかないからな。実際に何をやったのかは知らない」
 ぼくはデッドスペースの使い方に思いを巡らせながら、ロッカーから着替えを取り出そうとした。
 しかし入れておいたはずのぼくの私服がない。
「あれ?」
 両隣を探してみても見あたらない。
「おいハンサム」
 声をかけられ振り返ると後ろに岩井が立っていた。さっきぼくにうしろからタックルを喰らわせたベテラン選手だ。
「そこはシーメンズのロッカーだ。お前らのロッカーはあっちだ」
 と親指で部屋の隅に置かれた段ボール箱を示す。段ボール一つ一つには名前が書かれていて、小山もそこから着替えを取り出していた。
「そうなんですか……空いてたもんだからてっきり」
「誰も使ってねーんだから空いてるわな」
 岩井が意地の悪い笑みを浮かべる。
「だけどそこは昔からシーメンズのロッカーなんだ。お前らパイレーツに使う資格はない」
 小山をみると彼は首を横に振った。逆らうなということだろう。
 岩井の後ろに控えるにやけた連中。そして部屋の隅で着替える容姿端麗な選手達。
 ぼくはなんとなく理解した。
 このチームには旧シーメンズと美里が連れてきた美男子達との派閥に別れているのだと。
 くだらない。
 本当にくだらないことだ。
 だがぼくはそれを口に出すようなことはしなかった。ここで殴り合いの喧嘩をしたとしても理解を深めるようなことはない。テレビドラマの世界ではあるかもしれないが、現実では溝を深めるだけだ。
 第一、誰が使ったかわからない古いロッカーより段ボールの方がましだ。
 ぼくが部屋の隅にいくと、小山がぐしゃぐしゃに丸められたぼくの服を渡してくれた。
「他にもこんなくだらないことはあるのか?」
 小山は苦笑いを浮かべて頷く。
「ああ。シャワーを使うのはシーラカンスどもが先。後かたづけはぼくらの仕事。チームバスでも席が決まっていて後部座席がシーラカンス専用。他にもいろいろあるけどおいおい説明するよ」
 ぼくは思わずため息をついた。
 振り返ると岩井達が談笑しながらシャワールームに向かっていく。美男子達はみんな黙々と着替えを続けている。 
 これでちゃんとチームプレーができるのだろうか?
 ピッチの外で信頼してない者達が、ピッチの中でだけまとまることなどあるのだろうか?
 だからといってぼくにチームをまとめる力なんてない。第一、まとめる気もない。それはぼくの仕事ではなく神楽監督の仕事だ。
 ぼくはただプレーしてればいいだけだ。
          
 



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