最終節 十二番目の戦士達
1
平日午後のゆりかもめは相変わらず人気がない。
ぼくは先に乗り込み、奈緒の旅行カバンを座席の上に置き、その横に座って嘆息した。奈緒はちょうど向かい側に座って、ペットボトルのお茶を口にした。
温かな春の陽気が、窓越しからも伝わってくる。
端からみれば、ぼくらは上京してお台場へ向かうおのぼりさんといったところか。
「大体、なんでこんなに荷物が必要なんだよ。何が入ってるんだ?」
ぼくは旅行カバンを示して、奈緒に苦言を呈する。
「いろいろなのです」
「どうしても必要なのか?」
「ふっふっふ。あなたは大事な人に会わせてくれるといったのです。おそらくはパイレーツの関係なのです。というよりパイレーツ以外の関係があなたにあるとは思えないのです」
「俺はそんな寂しい奴にみえるのか?」
とはいえ、奈緒の言うことは間違ってもなかった。アカネちゃんやちかちゃんにしたってパイレーツ関係者に変わりはない。
「つまり私をパイレーツ関係者にマーメイドとして推薦してくれるということなのです。もしもの場合、いろいろなパフォーマンスが出来るよう、衣装などを持ってきたのです。備えあれば憂いなしなのです」
「別にマーメイドとして推薦してやってもかまわないけど……」
ただ美里さんは、そういう所ではシビアなので、簡単には合格はくれないだろう。結局は奈緒のパフォーマンス次第ということになるわけだが。
ぼくは視線を窓の外に立ち並ぶ新橋のビル群へと移した。
それに会わせたい人物は美里さんではない。
第一、美里さんがいまブルーパークにいるかどうかもわからない。
ゆりかもめが動きだし、角度の変わったビルのガラス窓に太陽光が反射し、ぼくの瞳を光が射抜いた。
軽く目眩がした。
あのブルーパークを包み込んだ興奮の残滓が、ぼくを揺るがす。
飛び込んでくる照明の光。
飛び上がる十河の威圧感。
だけどぼくは誰よりも高く、そのボールをとらえた。
全ての始まり。
何かが変わるきっかけ。
それはいつも些細な事だった。
目を細めて視線を戻すと、奈緒がペットボトルを抱えたまま、春の陽光に照らされ、うとうとしていた。
ぼくは彼女の手からペットボトルを取り上げて、ジャケットをかけてやる。
台場駅に着くまでのわずかな間、眠らせておいてやろう。
ぼくは目を閉じて、再び記憶を辿り始めた。
たった一つのプレーが局面を変えることもある。
最高のセンタリングが十河に届けられ、それをぼくと十河が競り合って、ぼくが競り勝った。
いくらワンプレーがきっかけとなることがあるといっても、それで何かがガラリと変わったわけではない。
でもあれがスタートだったと思う。
思えばぼくの台場ブルーパークでのファーストタッチになったわけだ。
最高のセンタリングが上げられた瞬間、誰もが終わったと思っただろう。
だがそのセンタリングが送られた位置は、死んだスペース――デットスペースだった。
十河はその数秒前、オフサイドの位置を修正するために後方へバックステップしていた。それはぼくがオフサイドトラップをかける仕草をみせたからだ。だが実際にそのオフサイドトラップはかけられることはなく、ぼくの仕草はフェイクだった。
そんな駆け引きも知らない右サイドのサメットは、絶好の位置へとセンタリングを上げる。十河がバックステップを踏んでいるとも知らず。
だからぼくは十河より先に絶好の位置に入ることが出来た。
先にポジションをとれば、いくら十河といえどもやすやすと競り勝てるものではない。よしんば強引に力でぼくからポジションを奪おうとしても、ファールになるだけだ。
それでもぼくが十河に競り勝てたのは僅差だった。
あと数センチ十河が高ければ、結果はどうなっていたかわからない。
そのままぼくがヘディングで競り勝ったボールは、ボランチの別府キャプテンにわたった。
関東がセンタリングのために上がったサメットの後方に出来たスペースへと走り出す、そのスペースへ別府キャプテンからのパスが送られる。
その時、すでにぼくは駆けだしていた。
誰よりも早く。
このチャンスだけは逃してはならない。
関東は巧みなドリブルで相手ディフェンダーをかわすと、案の定、適当なセンタリングを上げてきた。
関東はドリブルの時には高い集中力をもっているものの、いざセンタリングとなると気を抜いてしまう。
ボールはぼくの予想通り小山君や神川兄の頭を越えて逆サイドのレナルディーニョに届く。レナルディーニョが再びセンタリングを上げようとした瞬間、ぼくは叫んだ。
「ヘイ!」
その声は相手ディフェンダーにも届いただろう。
だが相手ディフェンダーは突然現れたぼくへの対処に、自分のマークを外すべきかとまどいをみせる。ここですばやく飛び出した間寺はさすがA代表候補というべきだろう。
だけどその一瞬のためらいが致命的だった。
ぼくの右足が一瞬先にボールに触れ、飛び込んできた間寺のつま先にかする。
ボールは間寺のつま先に触れたことで高く跳ね上がり、ぼくのシュートコースをつぶそうと前に出てきた鳥堵の伸ばした手に触れることなく、ゴールへ向かって飛んでいく。
届け。
クロスバーギリギリの位置へと降下していくボール。
誰もが触れられる位置にはおらず、その軌道を眺めるしかなかった。
カン。
乾いた音がクロスバーを揺らす。
無情にもはじかれたボールが、ゴールラインの上に落ちる。
そのボールを押し込もうと駆け出す小山君。それをさせまいと飛びつく鳥堵。
その時
たしかにぼくは
風を感じた。
風を受けて、ほんの数センチボールが転がった。
主審の笛が鳴らされる。
そしてその指がセンターサークルを指す。
ボールを抱えて小山君の祝福の抱擁を振りほどき、ペナルティエリアへ向かっている最中。
ぼくは風を感じていた。
ブルーパークに吹き始めた風を。
2
「起きるのです」
いつの間にか寝入っていたらしく、奈緒がぼくの体を揺すっていた。
「一駅乗り越したのです。船の科学館まで来てしまったのです」
「……あ、ああ」
ぼくは慌てて飛び起き、扉が閉まる寸前のゆりかもめから、転げるように降車した。
「どうするのです? 引き返すのです?」
「いや、どうせ一駅だし。歩いていこう」
ぼくは手を差し出す。
奈緒は少し困惑したあと、その手を握ってきた。
「え?」
今度はぼくが困惑する番だった。
「いや……荷物を」
「ああ! ごめなさいです」
奈緒は頬を赤らめて、慌てて手を離し荷物を差し出してきた。
ぼくは荷物を受け取り、照れを隠すよう、先行して歩き始めた。
「なんの夢を見てたのです?」
背中から奈緒が声をかけてきた。
「なんかすごく難しい顔をしてたのです」
「この間の開幕戦」
「いい試合だったのです」
「あのゴールはちゃんと君に届いた?」
奈緒が首をかしげるのが気配でわかった。
「一点目のゴール。ちゃんと届いたかなって」
「届きましたよ」
「そう」
春の陽光がとても温かく、ぼくの足取りを軽快にさせた。
桜前線は東京にもやってきたらしい。
今度奈緒を誘って花見にでも行こう。
問題はどのタイミングに、どんな口実で誘うかだったが。
「あったかいです」
奈緒があくび混じりの声をあげる。
「そうだね」
「オランダはどうなんです?」
「さあね。アイツとは連絡とってないから」
「冷たいのです」
ぼくは笑って奈緒をみた。
「楽しみは次にピッチの上で会うときまでとってあるんだ。まずはピッチの上でたくさん話したいことがあるんだ」
そんな事を話しているうちにブルーパークが見えてきた。
東京湾に浮かぶ、雄大で流麗な建造物。
あの日、風が吹いた場所。
ぼくの
ぼくたちの
『海賊船』。
ブルーパークを包み込む歓声は、徐々に大きなうねりとなって、パイレーツイレブンの動きを軽くしていく。
十河というくさびを打たれ、ゴール前に釘付けにされていたイレブンが、その束縛から解放されていく。
ピッチの広さに今頃気づいたように、大きく広がり、自由に走り始めた。
逆にテンペストの選手達は、唐突な変化にとまどいをみせ、後手後手にまわる。
二点目は図師のセットプレーから、こぼれ球を小山君が押し込んだものだった。
後半二十五分。
2対6。
流れは完全にパイレーツに傾いていた。
「ふざけやがって」
十河が苛立ちをむき出しに吐き出した。
「何を盛り上がってる? 今更、ささやかな抵抗をみせたところで何になるってんだ?」
激しくぼくに体をぶつけてくる。
無理に競り合う必要はない。
ぼくはふっと力を抜いた。
ぼくに全体重わぶつけてきていた十河は突然バランスを失いよろめく。その隙にぼくは十河の前に出て、彼に送られるはずだったパスを奪った。
「なぁぁぁっ!」
背後から十河の雄叫びが聞こえる。
のばされた足がぼくの両足を絡め取る。
笛が高らかにならされ、十河にイエローカードが提示された。
十河はあきらかに苛立っており、そのまま審判に詰め寄ろうとする。それを江戸川と古場で押さえる。
「大丈夫か」
岩井がぼくに手をさしのべた。
ぼくは素直にその手をとり、立ち上がる。
「別に無理する必要はない。シーズンはまだ始まったばかりだ。黒星一個ついたところでいくらでも取り返せる。無茶して怪我をする必要は――」
「岩井さん」
ぼくは転がったボールを拾う。
「ここはどこですか?」
「どこって……」
「ここは俺たちのホームです」
岩井の顔がこわばる。
別にファンが悲しもうとどうでもいい。ずっとそう思ってきた。
実際、ぼくにファンのありがたみなんてわからなかった。
確かに彼らがお金を落とすことで、ぼくらの生活費がまかなわれている。
だからといって彼らのためにサッカーをしようとは思わなかった。だからファンなんていてもいなくても、ぼくには関係ないと思っていた。
だけど違う。
今このスタジアムにいるみんなは――奈緒は――共に戦う戦士だ。
声をからし
声には出さぬ者も
その握りしめた手に力を込め
祈るように
願うように
全ての想いをぶつけ
ボールをゴールへ。
こんな大きな力がぼくの追い風となってくれる。
それは今までに感じたことのないものだ。
「そうだな……悪かった……勝ちにいこう」
岩井は一度俯き、それから短く強い息を吐き出して顔を上げた。
ぼくは微笑み、彼に頷きかけた。
岩井のことは今でも嫌いだった。
だけどこのピッチの上にいるかぎり。
ぼくと彼は戦友だ。
このスタジアムにいる全てのパイレーツファンが
ぼくの戦友だ。
点差も
相手の力も
何も関係ない。
ぼくは負ける気がしない。
3
約束の時間より早くついてしまったので、奈緒と二人で展望レストラン『トルトゥーガ』に寄る。
窓際の席に座り、カプチーノを頼んだ。奈緒はリコッタチーズのケーキとシフォンケーキとアイスティーを頼んだ。
海賊の格好をしたウェイターは、格好に似合わない丁重な口調で、デザートは結構な量になるのでひとつにした方が賢明だと勧めたのだが、奈緒は譲らず、結局ウェイターが折れた。
奈緒と二人で窓から見える東京の景色について話していると、二人組の女子高生がぼくにサインを求めてきた。
こころよくそれに応じると、写メールまで撮られて、さすがに苦笑せざるえなかった。
「すっかり有名人です」
「まあ一時的なもんでしょ。みんなが好きなのは、やっぱり小山君だから」
「そんなことないと思うのです」
奈緒はそのあと小声で「少なくともわたしは……」とかなんとか、ごにょごにょと言っていたが、結局聞き取れなかった。
そうこうしているうちに山盛りのデザートとドリンクがやってきた。
「圭吾の話だけど」
「ふい?」
奈緒は口いっぱいにシフォンケーキをほおばったまま顔を上げた。
「昔、似たようなことがあってさ。ある選手が、ある選手に怪我を負わせたんだ。そして怪我した選手はヤケになって事故を起こし、たくさんのものを失った。それが原因で二人ともサッカーから離れた」
奈緒はシフォンケーキを飲み込むと、だまってぼくの話に聴き入った。
「だけど怪我を負わせた選手は高校の監督になった。彼はサッカーよりも大事なものがあることを教えようとした。サッカーを失うことで、自暴自棄になってしまわないように。サッカーよりも大事なものがあることを教えようとしたんだ。ぼくは結局、その言葉に耳を傾けなかったけどね」
麻生監督はきっとぼくの弱さに気づいていたんだ。
だからあそこでぼくに挫折を与えた。
声をかけて励ましたりせず、ぼくを突き放した。ぼくがサッカーにつぶされてしまう前に、悪者になってぼくを守ろうとした。
「そして怪我をして全てを失った選手も、フランスに渡ってサッカー指導者を目指し始めた。自分がかなえられなかった願いを、他の人たちに託そうと。そのために最高の指導者になろうと。結局、二人ともサッカーから離れられなかった」
ぼくがそこまで言ってカプチーノを口に含むと、奈緒はほほえみかけてきた。
「きっと久留須さんと壁凪さんも一緒なのです。サッカーと生きていくしかないのです」
「そうだといいけど」
ぼくは苦笑を浮かべてカプチーノを置いた。
ふいにタバコの香りがした。
心が躍る。
「その怪我をした選手はね。今は昔いたチームの監督になっているんだ。美男子ばかりそろえるお金目当てのどうしょうもないチームだけど、あの人にとっては愛着のあるチームなんだ」
「ホントどーしょーもねー選手ばかりだけどな」
神楽監督はそう言い放ってぼくの隣に腰を下ろした。
「なんだテメーの彼女でも紹介しようってのか?」
「えっと彼女は雫奈緒さん。どうしてもパイレーツのマーメイドになりたいみたいです」
「そういう話は俺じゃなくて美里……」
神楽監督の顔がこわばる。
「雫……奈緒……?」
奈緒がぺこりと頭を下げる。
「こちらはいわずとしれたパイレーツの監督神楽京介さん。バツイチ。現役当時は婿入りしていて雫京介は月島シーメンズのエースだったらしい」
それは遠い昔。
十年以上も昔の話。
苛立つ十河の乱雑な足下から、ぼくは軽々とボールをかすめ取る。
テンペストに不協和音がひびき始めた。
絶対的エースということで君臨していた十河。
その力ゆえに許された特権。かりそめの信頼関係。
だけど彼が力を失ったとき、誰も助ける者はいない。
十河が競り勝つことを前提に組まれた戦術やシステムは、十河が崩れると共に、すべての機能を失う。
十河の力が大きすぎたんだ。
混乱に乗じて、別府キャプテンがペナルティエリアの外からミドルシュートを決める。
3対6。
歓声が爆発し、屋根に当たってピッチへ降り注ぐ。
コンサートを意識してつくられたスタジアムは、それ自体が音響装置の一部となっている。
歓声がピッチを覆い尽くし。ぼくたちに自信と勇気を与えてくれる。そしてテンペストの選手達に混乱と恐怖を。
あの弱くかすかな風は、いまや大きな力となり、会場全体を包み込んでいた。
この一体感はなんだろう?
ぼくの中に流れ込むのはなんだろう?
とても気分がいい。
解き放て。
声が聞こえた。
解き放て! 三汰!
圭吾の声だ。
ぼくの耳に木霊し続ける圭吾の声。
そうだ
もうあとは解き放つだけでいい。
この溢れんばかりの力を、ピッチの上に解き放つだけでいいんだ。
テンペストのパスをカットする。
前線の選手達が走り出す。
すべての信頼関係がつながっていた。
ディフェンスがボールを奪うことで、思い切った攻撃ができるようになるオフェンス陣。
オフェンスがゴールを決めてくれると、何度でも体を張ってボールを奪い、それを託すディフェンス陣。
届けたい。
この想いを
あのゴールの向こうへ。
ぼくは駆けだした。
右サイドを駆け上がった図師が、センタリングを上げる。
小山君が飛び込みヘディングする。鳥堵がそれをギリギリのところではじいた。
ボールはゴールライン間際を転がっていく。
ぼくは体を投げ出すように、ボールに向かって足をのばした。
その時の感覚を忘れることはないだろう。
あの風に包まれた感覚を。
あらゆるものがその一点に集約されていていると同時に、何もないような、静かで穏やかな空白。
真っ白になって、そこにあらゆる想いが流れ込んできたように感じられた。
つま先がボールに触れた。
つづく
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