第十一節 エレファント
1
凍りついたようなビルの合間に、アスファルトを踏みつけるシューズの音が響く。
通勤時間になれば、多くの人が行き交う京橋近辺も、まだ眠りについていて、人影もほとんどない。
薄いブルーの膜を貼ったような世界。
東京だというのに、空気が澄んだようにすら感じる。
おそらくまだ朝の六時を過ぎたばかりだろう。
吐き出す息が白いのは、ランニングして体が温まったせいなのか、気温が低いせいなのかわからなかった。
やがて少し視界が開けると、左手にガラス張りの国際フォーラムが姿を現す。ぼくはその国際フォーラムに背を向けるようにして、東京駅の方面へと外堀通りを走っていく。
東京駅の方まで来ると、さすがに賑わいをみせてきた。昼間の喧噪に比べれば閑静なほうだけど。
ぼくはそのまま八重洲口前の壁際に体を預け、高速バスを待つ人々を眺める。
中にはアントラーズのユニフォームを着たカップルもいた。
今日はJ1も開幕なんだ……。
グランパスも開幕を迎える。
毎年ずっとかかさずに応援に駆けつけていた。花火が上がり、掲示板にチームスローガンが浮かび上がり、厳かなナレーションが会場に流れる。
だけどぼくは今、全然違う場所でJリーグの開幕を迎えようとしている。
このまま駅構内に入って、新幹線に乗って、名古屋まで行けば、十分開幕には間に合うだろう。
いままでずっと続けてきたように。
グランパスの開幕をスタジアムで迎える。
ぼくはゆっくりと息を吐き出し、壁から背中を離した。
冷たい汗が背中をつたう。
今、ぼくは東京にいる。
それを象徴するかのようなビル群が、目の前に広がっている。
事実は受け止めよう。
とりあえずでも、今は台場パイレーツの一員なんだ。
約十二時間後には、あの台場ブルーパーク――『海賊船』で開幕を迎えるんだ。
冷たい風を切るようにして、ぼくは再び走り出した。
ビルの合間を縫うようにして、朝日が差し込んできた。
ぼくはそっと目を細めた。
2
GK 芝宮
DF 岩井、正木、神川(功)
MF 別府、図師、福田、レナルディーニョ
FW 神川(成)、小山、成島
SUB 牧、志村、久留須、関東、前田
案の定、発表されたスタメンの中にぼくの名前はなかった。
サブに選ばれたことさえ不思議だった。おそらくは怪我人と出場停止で、ディフェンダーが駒不足なせいだ。それともトップ下もやれるユーティリティ性を買われたのかもしれない。
どちらにしろ出番がまわってくることはなさそうだ。
ディフェンダーの控えなら志村さんを使うだろうし、トップ下なら関東を試すだろう。ぼくはもしもの時のための保険に過ぎない。
手駒の少ない中で、神楽監督なりに苦渋の選択だったに違いない。
みんなが開幕戦を前に意気揚々とウォーミングアップする中、ぼくはフラフラと室内練習場を出て行った。
別に行きたい場所があるわけでもない。
ただスタジアムの中をあてもなく歩いていた。
とはいえコンコースに出ればファンに見つかるだろうから、主に何もない通路を歩いているだけだったけど。
観客の目につかないところだというのに、ブルーパークの内装はやたらと凝っていた。
船をイメージしてなのか、壁際に舵が飾ってあり、横には海賊旗のようなものが貼られていた。
炎をバックにした赤いドクロマーク。パイレーツのエンブレムだ。
ひゅっ、と風を切るような音がした。
視線を音の方に向けると、ボールがすごい勢いでぼくの目前まで飛んできていた。
ボールはかばおうと挙げたぼくの右手に当たり、壁に衝突して飾ってあった舵が床に転げ落ちた。
「それじゃあハンドじゃねーか。ディフェンスが咄嗟に手なんか出すんじゃねーよ」
耳障りな声がした。
傲慢で頭の上から降りかかってくるような声。
十河大作が口の端を挙げて、ちょうどぼくから五メートルほどのところに立っていた。
青と黄色の縦縞に、青いパンツ。胸に輝くのは稲妻をイメージしたエンブレム。そして『電界商城』というスポンサーロゴ。
ユニフォームを着ると、一層迫力が増したようだった。
太い四肢といい、骨太な感じといい、とても同じ日本人とは思えない。
用具係が慌ててぼくの足下に転がったボールを回収する。迷惑そうな表情をしていたが、十河をみると何も言えないまま、そそくさと立ち去っていった。
「つまんねーなぁ。お前スタメンじゃないんだって? せっかく、俺と壁凪の違いをみせつけてやろうと思ったのによ」
心の奥底で、なにかがゆっくりと立ち上る。
ほんの小さな揺らぎだったにもかかわらず、それはぼくの体の真心から全体へと熱い何かを放出した。
「壁凪みたいな貧弱な蟻は潰せても、俺みたいな完璧なアスリートは潰せないって事を、世間にしらしめるチャンスだったのによ」
「壁凪……壁凪……」
熱が体中でうねりをあげる。目眩がしてきた。
「あん?」
「うるせーんだよ! さっきから! 口を開けば『壁凪が』『壁凪が』って! 圭吾を過剰に意識してるのはお前自身だろ!」
体中に広がった熱のようなものが、十河に向かって一直線に放たれていった。
「スター扱いされてるからって圭吾とテメーの親父を一緒にしてんじゃねーよ!」
ぼくの言葉を受け、十河の顔がこわばった。気がついたら、ぼくは十河に胸ぐらを捕まれ、壁に叩きつけられていた。
「親父の話を俺の前でするんじゃねえ! 殺すぞ」
十河は脅しでなく、本気で殺しかねない形相で、ぼくを睨んだ。
「俺はな、パイレーツみたいなミーハー軍団が――そもそも日本のJリーガーってのが嫌いなんだ。いい大人になって、玉遊びして、ヒーロー気取りやがってよ! そーゆー奴らを全員ねじ伏せてやる! いいか! 一人残らず全員叩きつぶす」
十河の手が離れると、ぼくは短く息を吐いて、壁に手をつき、座り込みそうになった体を支えた。
「今からここで起こるのは一方的な破壊行為だ。こんなふざけたチーム、跡形もなくぶっつぶしてやる! 二度と誰も見に来たくならないようになっ! テメーもだ! 出てきたら確実に叩きつぶす!」
十河はそのまま踵を返して去っていった。
叩きつぶす。
そんなことを言われたって、ぼくに出番がまわってくるはずもない。
だけど放ちきったはずの熱が体に残っていて、ぼくの心をざわつかせる。
あいつに思い知らせてやりたい。
サッカーを玉遊びといったアイツに。
ぼくや圭吾がどれだけの、痛みや、喜びや、悲しみやを抱いてきたのか。
誰でもいいから、アイツにそれを思い知らせてやって欲しい。
だけどそれが出来るはずの圭吾は
今頃、遠い異国の地だ。
くやしくて拳を握りしめるしかできない。
ぼくは強く強く、両手の拳を握りしめた。
だけど決して、心のざわつきが収まることはなかった。
3
神楽監督はホワイトボードに手のひらを叩きつける。乾いた音と共に、いくつかのマジックが床に落ちた。
選手達の視線が神楽監督に集まった。
「近年、我々のチームは『錨を降ろした船』と言われてきた。相手に押し込まれ、自陣から出られないチーム。パイレーツなんて名ばかりだ。もうそろそろ出航しようじゃないか! 七つの海で暴れ回ろうじゃないか! なあキャプテン」
神楽監督が別府をみると、別府はやや昂揚した面持ちで「おう!」鬨の声を上げた。そして立ち上がり、ぼくたちにむかって声をあげる。
「そういうわけだ! 尻込みしてる奴らは出航前に船から降りてくれ! 今日の相手は島原テンペスト。名前の通り嵐みたいなチームだ。いきなり厳しい航海になるだろう。それでもお前らついてくるか?」
ぼく以外の全員が「おおっ!」と低い声を上げる。室内の温度が急上昇した気がする。
神楽監督が前に出て手を叩く。
「よし! 出航だ!」
全員が「よっしゃ!」とか「おおっ!」などと何事か叫びながら立ち上がる。レナルディーニョは胸の前で十字をきり、神に祈りをささげる。小山君は髪型を整える。関東や図師の顔は、ひきつったようになっていた。福田は隅っこで吸っていたタバコを、携帯用灰皿でもみ消し、岩井は気を引き締めるように自分の両頬を叩いた。
チームが動き出そうとしているとき、ぼくだけが蚊帳の外にいるような気がした。
「久留須」
気がつくと側に神楽監督がいた。
「ウォーミングアップをサボってどこに行っていた?」
「……」
ぼくは何も答えられない。というより、答える気がしない。サボっていたのは事実だし、言い訳する意味がない。
「戦う気がないなら出て行け! 中途半端な気持ちでピッチに立てば、また事故を起こすだけだ」
ぼくは頷いた。
そしてドレッシングルームを出て行く。
チームメイトの目が痛かったが、内心ほっとしていた。
もう一度、あのピッチの上に立つ自信がない。
いつかこうして誰かが逃げ道を作ってくれるのを待っていたのかもしれない。
戦うのが怖くて、苦しくて、自分はダメだとあきらめることで、戦うことから、嫌なことから逃げてきた。
逃げるための言い訳を探していたんだ。
神楽監督に言われたことを言い訳に、逃げ出すことを自分の中で正当化しようとしているんだ。
その自分の弱さに、苦笑するしかなかった。
「あれ? 久留須さん? どうしたんですか?」
廊下に出ると、チームマネージャーの福山さんと出くわす。
福山さんは、CMに出たりする機会の多い選手達のスケジュール調整や、神楽監督の仕事の補佐などをしている人だ。
最初、ぼくをスカウトしたいと電話をかけてきたのも彼だった。
「監督に追い出されちゃいまして……まあ自分が悪いんですけど」
ぼくはヘラヘラと笑いながら言った。
そんな自分がとても嫌だった。
「ええ? 本当ですか? 怪我でもなければ今更メンバー交代なんてできないのに……神楽さんも無茶するなぁ……ああ、それじゃあこれをどうぞ」
福山さんは懐からチケットを取り出す。
「友達に頼まれたんですけど……どうも仕事があるんで来られないって事になって、余っちゃったんです……ああ、美里さんに言えばVIP席用意してくれると思いますけど」
「いえ、大丈夫です」
ぼくは渡されたチケットを受け取った。
「言いにくいならぼくの方から頼んでみましょうか? やっぱ選手が一般客に混じってスタンドにいるのもなんだし……」
「本当に大丈夫ですよ」
「ああ、でも……問題が起きたらいけないし……やっぱ頼んできますね。ここで待っててください」
福山さんはそう言うと、駆け足で廊下を引き返していった。
だけどぼくはVIP席で美里さんと一緒に試合観戦するなんてごめんなので、福山さんには悪いけど、彼を待たずに踵を返した。
どうせだったら気楽に試合観戦でもしよう。
ホットドックでも買って、レプリカユニフォームでも着て。
ああ、トレーニングウェアを脱げばユニフォーム姿になれるんだった。
ぼくは一人で笑った。
そして深いため息を、虚空に放った。
4
スタジアムに出ると、ちょうどマーメイド達がチアをしている所だった。
離れていてどせがアカネちゃんかわからなかったけれど。
ぼくはオレンジジュースとホットドックを片手にもち、もう一方の手にチケットをもち、自分の座席を探す。
ちょうど目の前にスタッフジャンバーを着た女の子がいたので、案内してもらおうと思ったとき、開幕をつげる花火が上がった。
始まる。
ぼくとは関係ないところで、リーグが幕を開けようとしている。
なんだか心がずくずくと痛んだ。
さみしさなのか、くやしさなのか、苦しみなのか、なんだかわからないものがこみ上げてくる。
視線を戻すと、スタッフの女の子も花火を観ていたらしく、ぼくの視線に気づいて顔をこっちに向けてきた。
「おーっ」
「あ」
見開かれた大きな双眸。「お」の字に開いた口と、ふくらかな頬。あの時とは違って目のしたにクマこそなかったものの、相変わらず眠そうな印象を受ける。
雫奈緒は驚きを露わにした表情でぼくを見ていた。
「久しぶりなのです。こんなところで何をしてるのです?」
「さあ? 何をしてるんだろうね?」
ぼくは誤魔化すように苦笑した。
「そういう君こそ、なんでスタッフなんかやっているの?」
「何でもいいからパイレーツの役に立ちたかったのです。オーディションに落ちた帰りに募集しているのを見つけたのです」
「マーメイドはあきらめたわけ?」
奈緒は思いっきり首を横にふった。ふわふわウェーブのかかった髪が乱れる。
「来年また挑戦するのです」
奈緒は慌てて乱れた髪を直す。
「久留須さんは選手だったのです」
「ああ」
「あの時はずっと黙っていたのです」
奈緒はうらめしそうな視線を向けてきた。
「いや、あの時はまだ契約してなかったし」
それに今だって選手と呼べるかどうか……。
「今日は出ないのです?」
「多分ね」
「残念なのです。ちょっと楽しみにしてたのです」
「ごめんね」
ぼくは苦笑を浮かべた。
「約束なのです」
奈緒は小さく微笑んだ。ぼくはそんな彼女に訝しげな目をむける。
「ここでわたしを待っていると言ったのです。約束守ってくれたのです」
心がズキリと鈍い音を立てて痛んだ。
選手として君を待っているつもりだった。
いつかマーメイドとしてやってくる君を、選手として待っているといいたかったんだ。
なのに現実は、こうして惨めにチームを追い出されて、スタジアムの片隅での再会。
なんて情けないんだろう。
大音量でラップが流れ出す。
小山君が歌ったラップだ。女性ファンの間から、歓声があがる。
音楽に合わせて選手が入場してくると、スタジアム全体から歓声が沸き起こり、無数のフラッシュがたかれる。
あまりのまぶしさにぼくは顔を手で覆った。
指のすき間からピッチを見下ろす。
並んでいる選手達の中にあって、頭一つ飛び出た存在。
十河大作がそこにいた。
あからさまに不快な顔をしている。
いや表情までは見られなかったけど、全身がそれを物語っていた。
このスタジアムのミーハーぶりが癇に障るのだろう。
奈緒はスタッフジャンバーのポケットからパイレーツのエンブレムが入ったミニマフラーを取り出し、それを掲げる。
スタッフがそんなことしていいんだろうか?
奈緒自身にまったく悪気がなさそうなので、あえてつっこむのはやめておいた。
「席につかないのです?」
「ああ、ここでいいや」
ぼくは手すりに肘をついて体重を預ける。
「本当は通路観戦する人は注意しなくちゃならないのです」
「へー」
「まあいいのです」
両軍の選手が軽くボールを蹴り合ってから、審判が手を挙げる。
奈緒の顔に緊張が宿る。
試合開始のホイッスルとともに、小山君がボールをけり出した。
同時に、光の嵐のようなフラッシュ。
多くの人が持っているのは使い捨てカメラみたいだけど、それでどれだけ選手の姿が鮮明にとらえられるのだろう?
離れた席なら、顔すら識別できないのではないか?
ぼくが疑問に思った瞬間、ふわりとしたボールがパイレーツのゴール前に上がった。
195センチの巨体が舞い上がる。
競り合ったはずの岩井をものともせず、額でボールをとらえる。
そして弾丸のようなヘディングシュートがゴールに突き刺さった。
圧倒的な力でねじ伏せた得点。
十河大作。
クレイジーエレファントという二つ名が示すとおり、パイレーツディフェンス陣を軽々と粉砕してみせた。
試合開始、わずか二分。
十河が人差し指を点に突き出した。
それが悲劇の幕開けだった。
5
悪循環だと思った。
パイレーツは流砂にはまったようになっている。
十河の存在感がディフェンス陣に恐怖を与え、深いラインをとらせる。すると十河のポストプレーからテンペストの中盤がいい形でボールを受けられるようになる。それを防ぐためにパイレーツの中盤が守備に下がる。そして完全に押し込まれるようになると、フォワードも孤立してしまい、挙げ句の果てに中盤の手助けに戻る。パイレーツの選手達はどんどん相手のゴールから離れていく。
長くは保たない。
パイレーツのディフェンス陣は、どんどんと飛び込んでくるテンペストの選手達を相手に、完全に混乱していた。
ペナルティエリアにテンペストのボランチが進入してくる。岩井の注意が十河からその選手に向けられた。
一瞬だっただろう。
その一瞬の間に十河は岩井の死角に回り込んだ。岩井が十河を見失う。
やられた。
フリーになった十河めがけてセンタリングが上がる。
十河はそのボールを抱きかかえるように、胸でトラップした。
強靱な十河には似つかわしくない、やわらかなトラップだった。
そして自分の蹴りやすい位置に落ちたボールに、右足を振り下ろす。
岩井がふり返って十河の存在を確認した頃には、すでにゴールは決まっていた。
前半二十一分。
十河が高く拳を突き出すと、スタジアム中がため息に包まれた。
この失点で意気消沈してしまったパイレーツディフェンス陣は、わずか二分後に再び十河に得点を許してしまう。
簡単にパスを通され、十河が切り返して正木をかわすと、そのままペナルティエリアのわずか手前から、低い弾道のミドルシュートを決めた。
前半始まってわずか二十三分だというのに、会場全体をあきらめの空気が包んだ。
パイレーツはまったくというほど攻撃の糸口を見つけられない。
一方的に責められ続け、失点を重ねていく。
選手の誰もがうなだれ、肩を落とす。
仕方なく神楽監督は前半のうちに選手交代の一枠を使ってきた。
成島に代えて関東。
彼のドリブル突破に一縷の望みを託そうとしたのか。
交代でスタジアムが一瞬沸いた。
だがすぐさま沈黙を強いられた。
前半四十分。
攻撃的に出ようとしたパイレーツの裏をかいて、テンペストのカウンターが決まった。
飛び出した十河は悠々とシュートフェイントでキーパーの芝宮さんをかわし、無人のゴールにボールを流し込んだ。
完全に十河一人に叩きつぶされた格好だ。
サッカーはひとりでやるものではない。
だが十河という規格外のモンスターが存在するだけで、ディフェンスは混乱し、それがチーム全体に悪循環を与える。
横で、小さな手がきゅっと手すりを握りしめた。
ふと見ると、隣で奈緒が身を乗り出していた。
唇を噛み、目を潤ませて、全身に力をこめて涙をこらえている。
「くやしいのです」
前半の終わりを告げるホイッスルと共に、奈緒はつぶやいた。
ポロリと、頬を涙がつたった。
たかがゲームじゃないか。
そんな風ななぐさめの言葉が浮かんだけど、結局口に出すことはなかった。
ぼく自信が感じるこの憤り。苛立ち。苦しみ。涙こそ流さないものの、奈緒の気持ちが痛いくらいよくわかった。本当に痛いくらいに。
サッカーは一人でやるものではない。
しかし時として一人のプレーが全てを変えることもある。
十河という存在が、パイレーツの全てを混乱させている。
彼を止められないことで、全ての選手が萎縮してしまっていた。
多くの観客のため息によってもたらされた重苦しいハーフタイムが過ぎ、ピッチに再び姿を現したパイレーツイレブンは、まるで今から死刑台にでも昇るかのような顔をしていた。
対照的にテンペストのイレブンは、後半を残しているものの、まるで試合が終わったかのような笑顔をみせていた。
十河はセンターサークルに立つと、薄ら笑いを浮かべ、人差し指、中指、薬指の三本を天に向けた。
ハットトリック宣言
後半、あと三点獲ると言うのだろう。
パイレーツイレブンはその挑発に激昂するどころか、誰もが疲れたように絶望を滲ませ、なかには苦笑を浮かべる選手すらいた。
そして宣言通り、後半開始から五分も経たないうちに、十河は強引な中央突破から、大砲のようなシュートでゴールネットを揺すった。
本日、五点目。
あと二点。
ぼくは正直、もう終わったとその場に座り込んだ。
できるならパイレーツのチームメイトに十河の鼻をあかしてもらいたかった。
でもそれは無理な話だった。
十河だけではない。
長髪をなびかせ、左足から魔法のようなスルーパスを何度も演出する古場篤郎。驚異の運動量であらゆるところに顔を出すドレッドヘアーの江戸川太一。出番こそ少ないもののセンターバックの間寺丸尾とゴールキーパーの鳥堵史哉。この四人はA代表候補でもある。 そして何度も右サイドを切り裂いて、十河に絶好のクロスを供給するトルコ代表のサメット。十河の相方のストライカーはJリーグ最速のスピードを持つともいわれるブラジルU−20代表のマルティーニョス。
このそうそうたるメンバー相手に、戦意を失ったパイレーツが勝てる要素などない。
テンペストベンチをみると、控えのフォワード板東二郎が監督の指示を仰いでいた。
元オリンピック代表選手で、十河が来るまでテンペストのエースストライカーだった男だ。
おそらく十河を温存しようというのだろう。
試合はもう決まっている。
ボールがタッチラインを割ってプレーが切れた。
その時だった。
ベンチの様子に気づいた十河が、いきなり自軍のベンチに向かって駆け出し、タッチライン際に置いてあったペットボトルを投げつけた。
驚く板東選手と監督。
十河はそのまま人差し指でベンチを指さす。それが意味することはひとつ。「座っていろ」と言いたいのだ。
テンペストの選手達が自分達のチームのエースに、露骨に不快感を示した。
無理もない。
板東選手は、十河が来るずっと前からテンペストを支えてきた選手だ。
その先輩に対する振る舞いとしては、十河はあきらかに礼節を欠いている。
だが誰も十河に文句を言おうとする様子はない。
十河はこのチームにおいて、すでにアンタッチャブルな存在と化しているんだ。
そしてそれを証明するかのように、後半十分にコーナーからのヘディングで六点目のダブルハットリックを決めてみせた。
もう歓声すら沸かない。
はるばる長崎からやってきた熱烈なテンペストファンですら、どこか気の抜けた拍手をしている。
見事だよ。
本当に見事だ。
十河。
怒りと憎しみをもって。
お前は本当にサッカーを壊してみせた。
ぼくは静寂に包まれたスタジアムに向けて、こぶしを突き上げる十河に、拍手してやろうと思った。
それは、ポケットから手を出した瞬間だった。
ぼくの目の前に差し出された小さな手。
見上げると大きな瞳を真っ赤に充血させた奈緒の顔。
ぼくはその小さな手をとって、彼女の力を借り、立ち上がった。
後半十分。
0対6。
この劣勢の中。
観客も選手もあきらめてしまった中。
君は――
「君はまだ勝利を信じているの?」
奈緒はぼくの手を離し、涙をぬぐって、強く頷いた。
そして祈るように両手を合わせ、ピッチに視線を戻した。
どこに奇跡の起きる要素があろうか?
選手すらあきらめてしまっているこの状況で、何を期待するというのか?
観客席にいた若い男が、唐突にボヤいた。
「あーあ、もう試合はいいから、小山のコンサートやれよ」
一緒に来ている友達らしい人物が、それに続いた。
「ホントホント。相手になってねーよ。もうお前らサッカーやめろー!」
けらけらと笑い声をあげる。
他の観客が、その二人を白い目で見ていた。
だが誰も何も言わない。
みんな彼らの言っていることを、どこかで認めてしまっているのだ。
ただ一人をのぞいて。
「ちゃんと応援するのです!」
奈緒が叫んだ。
若者達は突然の声に驚きながらも、眉間にしわを寄せふり返った。
そして声の主である奈緒を見つけ、階段を昇り詰め寄ってきた。
「なんだ? ここじゃスタッフが客の応援の仕方にいちゃもんをつけるのか? お客様あってのプロサッカーだろ」
男は奈緒をにらみつける。しかし奈緒は目をそらすことなく、にらみ返した。
「ピッチで戦っている選手達を邪魔するなら他の人たちの迷惑なのです。帰るのです」
「他の人たちって――誰も勝てるなんて思ってねーよ」
男は薄ら笑いを浮かべて観客席を示した。他の観客達は、肯定こそしなかったものの、何も言えずに小競り合いの様子を見ているだけだった。
「勝てるのです」
「アンタ、サッカー知っての? これだからパイレーツはミーハーファンばかりって言われるんだよね。野球とかとは違うんだよ? 応援する前にサッカーの勉強してこいって」
連れの男がそれに続く。
「そうそう。大体さ。戦ってる選手達が諦めちゃってるんじゃ、どうしようもないじゃん」
うなだれるパイレーツイレブン。
誰もが、さらし者にされることに耐えかね、早く試合が終わればいいと思っているだろう。
「大丈夫なのです。私たちが諦めなければいいのです」
「はあ? 何言ってんの? 戦ってるのは選手達なんだよ」
「わたしたちも戦っているのです」
奈緒は必死に笑顔を作ってみせた。
「昔、お父さんが言ったのです。パイレーツの十二番が欠番なのはサポーターの番号だからなのです。わたしたちは十二番目の選手なのです」
男達の背中にプリントされた十二の背番号。
サポーター向けに発売されるレプリカユニフォームには、指定がなければこの番号が入れられる。
おそらくはチームにより愛着を持たせようという、美里さんの戦略なのだろうけど。
「風が吹くのです」
奈緒の言葉に、その場にいた全員が首を傾げるような様子をみせた。
「お父さんが言っていたのです。観客席から風が吹くのです。奇跡のような試合の時は、いつもその風が吹いていたのです」
風が吹く。
「パイレーツがんばれー」
すぐ側にいた男の子が立ち上がり声を上げた。
小さな風だった。
そして最前線にいた女子高生達が頷きあい声をあげる。
「小山くーん! がんばってー!」
メインスタンドから上がった歓声が、静まりかえったスタジアムにひびき、ゴール裏に詰めかけていた熱烈なパイレーツファン達が顔をあげる。
そして思い出したように応援を再開した。
「な、なんだよ。いまさら何やったって勝てるはずねーのに」
男は突然周りの空気が変わったのにとまどいをみせる。
そうだね。
君たちの言うことは正しいのかもしれない。
サッカーはそんなに簡単なものじゃない。
応援一つで勝てるものじゃない。
そんなことは痛いくらい知っている。
だけどぼくは
「勝てるよ」
と、微笑んだ。
突然、割り込んできたぼくの存在に男達は驚きをみせる。
「奈緒」
ぼくは奈緒の手をとる。
「ゴール裏で待っててくれないか? 必ず君にボールを届けてみせる」
奈緒は少し驚きととまどいをみせ、それから静かに「はいです」と頷いた。
ぼくはウィンドブレーカーを脱ぎ捨てて、ピッチへと向かう。
階段を駆け下り、通路をくぐって、あの緑へ。
すぐ目の前に神楽監督の背中があった。
神楽監督がぼくの気配に気づいてふり返る。
「すいません監督……ぼくは……」
「――アップしてる暇はないぞ。すぐに交代だ」
神楽監督は言った。
「風が吹いた」
タバコの煙を吐き出し、ピッチを示す。
「小さな小さな風だ。それを捕まえろ。そうすればもっと大きな風が吹く。そういうときは何かが起きるもんだ……どうした?」
ふと、閃いたことがあった。
「……監督。ひょっとして昔、月島シーメンズの選手だったんじゃ?」
「あん?」
「娘さんを助けようとして怪我をしたことが」
「何をごちゃごちゃ言ってる! さっさと行け! 時間がないんだ!」
「はい!」
あの緑に向かって――
ぼくは駆けだした。
つづく
次へ
前へ
投票がてらランキングサイトへ戻る
タイトルに戻る